はじまりは、些細なものだった。
その日はひどく疲れていて、いつも以上に注意が散漫になっていたのだと思う。フラフラと常連になりつつあるコンビニに入店し、いつも通りにコーヒー牛乳を手に取ろうとした。ほとんど無意識に近い行動で、だからすぐ隣に人がいたなんて全く気付いていなかった
のだ。すっと伸ばした指先が当たるのは冷え切った紙パックではなく、ひどく暖かい、熱いとも言えるくらいの柔らかな感触で。
「あれ?」
と、思った時点でもう遅く、疲れた目をこじ開けて確認するとなんとそれは人の手で、自分のそれとは違う節ばったごつごつとした手を見れば、持ち主が男性だということが容易にわかる。まずい、と思って手を引っ込めて、そうして謝ろうと持ち主を探すと見上げる
形になった。どうやら随分大きな男性らしい、男性がコーヒー牛乳なんて珍しいな、なんて思いながら顔を見ると彼も驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。かちり、視線がかち合う。彼も紙パックから手を引っ込めたと思ったら、深々と頭を下げ始めた。
「どうもすみません、ぼーっとしてたみたいで」
「あ、いや、こちらこそ…」
謝るべきはこちらの方だろうに、すぐさま謝罪を述べた彼はこちらの言葉に顔を上げると被っていたテンガロンハットを被り直して、それからコーヒー牛乳を手に取った。あぁ、やっぱり買うんだな、こんな大きな男の人でも甘いものは欲しくなるんだなぁ、なんてぼんやり見つめていたら、すぅとそれを差し出される。眼前に広がる、コーヒー牛乳のパッケージ。きんきんに冷えたそれは触ってもいないのにひんやりとした空気を僅かながら漂わせている。そういえば、さっき触った彼の手は、やたらと熱かったなぁ、なんてぼんやり考えていると、差し出されたそれをずいと寄せられた。
「ほら、これ、買うんだろ?」
「…あ、うん、どうも」
気さくな物言いは不愉快になることもなく、すんなりと耳に入って来た。多分、最初の謝罪が尾を引いているのだろう、馬鹿丁寧に頭
を下げられたことを思い返すとなんだか毒気を抜かれた気分になった。疲れ切った頭をなんとか動かして頷いて受け取ると、彼はニッ
と笑った。なんだか、太陽みたい。そんなロマンチックなことを思い浮かべるくらい、眩しい笑顔だった。
「あんた、いつもこれ買ってるよな」
「へ?」
「おれもよくこの時間来るからさ、いつも買ってんなーって思って見てた」
なるほど、確かに自分はいつもこの時間にこのコンビニに来る。よっぽど仕事が滞って残業してない限り、毎日買いに来ている。確か
に言われてみれば、いつも彼を見かけていた。店員ならいざ知らず、客のことなんか覚えていないぞと一瞬焦ったが、よくよく考えれ
ばオレンジのテンガロンハットはコンビニの蛍光灯に照らされずとも目立っていたから、妙に頭に残っていたのかもしれない。
しかし、彼はよく覚えていたなと思う。服装は仕事用の地味な私服だし、顔だって絶世の美女っていう訳でもないどこにでもいる一般人その
ものだ。しいて特徴を挙げるとすれば、彼に比べると随分小さな体躯くらいなものだが、それでも大多数の中にいれば埋もれてしまうような小さな個性だ。
小さいだけに、なんてくだらないことを考えていると、彼はもうひとつ、コーヒー牛乳を手に取った。
「いっつも買ってるからさ、そんなに美味いのかと思って今日買うかーって考えてたんだけど」
そしたら、アンタが来た。
にしし、なんて毒気のない笑顔と共に告げられた言葉に、がつんと後頭部を何かで殴られたかのような感覚に陥る。なんだろう、この
胸のざわめきは。いや待て、落ち着け。これは単なる疲れから来る動悸に違いない。いくらなんでも、こんな一回言葉を交わしたくら
いの男性に惚れたなんて、そんな馬鹿な。何かの間違いだ、もしかしたら熱でも出ているのかもしれない。そう、これは熱から来る頭痛に違いないのだ。
「なァ、これ、やっぱ美味い?」
そんなこっちの心の内なんて全く知らない彼は─いや知らなくていいのだが─そう聞いてきた。こちらの沈黙を物ともしないで会話を
進めてくる辺り、案外図太い人なのかもしれない。
「うん、美味しいよ。甘いけど、その甘さが逆に良いっていうか」
気が付いたら口が先に動いていた。彼と同じくらい気さくにさらっと返していた。これは自分でも驚きなのだが、いくら彼が年上には
見えないからって、初対面でこんな口調で話したのはそれこそ子供の時以来、初めてに近かったからだ。何故か、ひとえにそれは緩い
彼のそれに釣られたからかもしれない。こちらの言葉を気にした風もなく、ふーん、なんて頷いた彼は持っていたそれをカゴに入れた。
「じゃ、試してみるわ。ありがとな」
眩しい笑顔が再びやって来て、まともな返答が出来ずに頷いた。そんじゃ、という言葉と共に片手を挙げてレジに向かう彼をぼんやり
見送る。あぁ、やっぱり疲れてるのかな。なんて思いながら、冷たい紙パックを握り占めた。一瞬触れた、あの熱さを反芻しながら。
:::
「あ」
「おう」
次の日、いつも通りの時間に入店すると、紙パックのジュースコーナーに彼がいた。お気に入りなのだろう、目立つオレンジのテンガロンハットを被りながら。
「昨日はどうも」
「どうも、美味しかった?」
気さくな雰囲気に緊張感はすっかり薄れ、ええいままよと思いながら昨日同様、敬語は使わずに話す。見た目や服装から考えると同年
代、もしかしたらもっと下かもしれないから気にするのもなんだか馬鹿らしく思えてきたのだ。それに、彼はそんなことお構いなしの
口調だし、気にした風も全くないから良いとしよう。
「んー、ちょっと甘かったな」
やっぱり。子供舌な自分が好んで飲むくらいだから、相応に甘いに決まってる。なんだか申し訳ないような気がして瞼を伏せると、彼
は慌てたように両手をわたわたさせて口を開く。
「あ、いや、でも美味かった!アンタが気に入る理由わかるよ」
そんなに慌てなくても気にしないのに。思わずくすりと笑うと、ほっとしたのか、彼は胸を撫で下ろしながらぽりぽりと頬を掻いていた。
「ごめんね、でも言ったでしょ?甘いって」
「おう、甘かった。アンタ甘党かい?」
「うん、結構。君は?」
「俺はなんでも食うし、飲むぜ」
「それは頼もしい」
軽快な会話は気分を悪くするどころか楽しくて、店内だというのに思わず二人して笑ってしまった。じろり、とレジに立っている神経質そうな店員
の視線に気付くと彼は肩を竦めて気まずそうに顔を歪めた。二人で無言の内に頷き合い、さっさと買うべきものを手に取ってレジを済
ませて外へ出る。空調の効いた店内と違い、外は少し生ぬるい風が吹いていて、でもそれはあまり不快ではなかった。
「やべーやべー」
なんて言いながら自動ドアを潜り抜けた彼は、こちらを見るとまた笑う。よく笑う人だな、なんて思いながら微笑み返すと彼は当然のように隣に並んだ。
「なァ、アンタ名前は?」
「え?」
「俺はポートガス・D・エース」
さらりと名前を告げる彼に驚きつつも、唇は勝手に動いていて、
「、、だよ」
気が付くとそう名乗っていた。満足そうに目を細めて笑う姿はやっぱり眩しくて、夜なのに太陽みたいだななんて思いながら目を細めた。
「宜しく、」
極々自然に、当たり前のように名を呼ばれ、でもそれが全然嫌じゃなくて、どうしたもんかなと少し考えながら彼を見ると曇りひとつ
ない笑顔になんだか笑ってしまって、手を差し出す。
「宜しく、えっとポート…」
「エース」
「あぁ、うん──宜しくエース」
差し出した手を強く握られる。触れた掌は昨日感じた以上に熱くて、昨日と違って疲れてもいないのに、なんだかすごく──くらくらしそうだった。
ハローサンシャイン
17/9/28