困った。
頭を抱えない辺り、まだまだ序の口と言ったところなのかもしれないが、確かに困っていた。時刻は10時半、家を出るまで後30分といったところだろうか。そう、家を出る。それは間違っても家出とか、結婚したから引っ越すとかそういう類のものではなくて、ただ単純に外出するだけだ。仕事だったら適当に職場で浮かない程度のものを選べばいい、コンビニだったら最悪それこそ部屋着でもいい。今何故こんなにも困っているのかというと、それはやっぱり出掛ける相手が問題だからだろう。
『おれとデートしませんか?』
そう言われたのは昨日の話で、運がいいのか悪いのか、昨日は金曜日で。食べに行こうと誘われて、気軽にOKしたら、彼にそんなことを言われた。彼との出会いは行きつけのコンビニで、仕事終わりのご褒美にと買っていたコーヒー牛乳がきっかけだった。なんとなく話すようになって、会話が楽しくて、コンビニに寄るとは大抵喋っていた。
何とも思っていなかった、と言えば嘘になる。彼との小気味いい会話は楽しかったし、何より彼の笑顔を見るのは好きだった。眩しくて、眩しくて、目を逸らしたくなるくらい眩しくて。いつの間にか、コンビニでコーヒー牛乳を買うことよりも、彼の笑顔が見たくなっていたのは確かだった。でもそれは、決して恋なんかじゃない、と思っている。だって知り合ってまだ1ヶ月どころか2週間程度しか経ってない、そもそも彼との接点はあのコンビニだけだった。そりゃあこの2週間は色んな話をした、彼に弟が一人いることも知ってるし、3人でルームシェアのような暮らしをしていることも知ってる。仕事はしているけど年下で、でも職場では期待されていて重要な仕事にも携わっていることも、それが誇らしくて嬉しくて頑張っていることも。甘いのも辛いのもなんでも食べることも、家の食卓ではいつも大戦争が起きてることも、全部彼が教えてくれたことだ。親しみは感じていた。大人になって、社会人になって数年経ったがこんなひょんな出会いから友人が増えたことを心から嬉しく思っていた。だから、なんというか、あまりにも予想外な言葉過ぎて。
『おれとデートしませんか?』
動揺した。顔が真っ赤になった。まるで学生の頃に戻ったかのようだった。彼は、どういうつもりなのだろう。性質の悪い冗談やからかいの類を言うような人間には見えなかった。付き合いは長くないが、真っ直ぐな男だということはよく知っているつもりだった。じゃあ、まさか、本気で──?冗談だろう、と思いたい気持ちが3割で、残りは嬉しいと思う気持ちで。恋じゃない、恋じゃないけど、好かれてて嫌な気持ちになるものでもないだろう。でも、戸惑っているのは確かだった。
服装が決まらない。いつもの仕事用で行くのは憚れるし、かと言って気合いを入れて意識してると思われるのも困る。じゃあ友人と遊びに行く時の格好でもと思うが、心のどこかで"本当にそれでいいの?"なんて思ったりもして。結局こうして、起きてからもう1時間は悩んでいた。部屋はもうひっちゃかめっちゃかで、これを戻すことを考えると悩める時間はもう残り少ない。
どうするか、どうするのが正解なのか。そもそも行くこと自体、正しいのか。彼とそういう関係になる未来は思い描けないし、だったら断るのが彼にとっても一番良いのかもしれないとも思うが、何せ連絡先すら知らないのだ。そもそもデートに誘われたくらいでそんなことを考える方がおかしいのだろうか。昨日は結局、あの言葉の後に今日の予定を聞かれて、訳も分からず馬鹿正直に空いてると答えてしまい、約束をしてしまった。好きだとも付き合ってくれとも言われていない。なんだか思い返すと、随分、彼のペースに惑わされている気がする。そうだ、そもそも告白をされた訳でもないのにこんなに動揺する方がおかしいのだ。大人として、もっと毅然とした態度を取らなければ。こちらだってそれなりに恋愛はしてきたのだ、デートくらい今まで何度もしてきたではないか。そう、負けてはいけない、振り回すくらいの気持ちで行こう。妙な決心をするのと同時に、先程までの悩みっぷりが嘘のようにあっさりと服装は決まった。



:::



待ち合わせ場所であり、彼との唯一の接点の場であるコンビニに着くと、もう既に彼は立っていた。お馴染みのテンガロンハットを被り、いつもと同じように立っていた。いつも通りなのに、昨日と大して違う格好をしている訳でもないのに、日の光に照らされたその姿に少しばかりドキっとしたのは何故だろうか。
「おう、!」
湧きあがった疑問に答える間もなく、彼がこちらに気付いた。名を呼ばれたことに一瞬ドキリとしたが、単純に驚いたからだと思いたい。手を挙げてひらりと振る姿は妙に様になっている。動揺を悟られないように昨日からの妙な気恥ずかしさを押し込めながら、手を振り返した。
「ごめん、待たせた?」
「いや、今来たとこ」
まるでデートの定番のような会話に、押し込めたはずの気恥ずかしさがまた膨らんでくる。でも意識していると思われるのもなんだか癪で、平静を装う。そう、こちらの方が大人なのだから、こんなことくらいで動揺してられないのだ。
「中で待っててくれてもよかったのに」
「あー…なんも買わねェのに入るってのも微妙だろ?」
確かに。言われてみればその通りだ。彼のこういった律儀な点は、年下ながら尊敬するところがある。学生の頃、用もないのに涼みに来てしまった浅はかな自分が少し恥ずかしくなるくらいだ。
「ところで」
「うん?」
「服、いつもと違うな」
「そりゃ、まぁ…」
結局選んだのは、スカートでもなければワンピースでもない。気軽に着れるサロペットだった。これなら特別意識している訳にも見えないし、そもそも行く先が馬刺し専門店なのだからこれくらいカジュアルでもいいだろうという判断だった。合わせたブラウスが、まだ着たことのない新品だったことに他意はない。そもそもこのサロペットに合わせたいと思って買った訳だし、うん、そう他意はないのだ。
「なんか新鮮だな、いつもはかっちりしてっから」
「変?」
「いや、可愛い」
ぐう。即答で恥ずかしげもなく、眩しい笑顔で言われると流石に照れる。こんなことをさらっと言えるなんて、さては結構遊んでいるのでは?と思いながら彼を見るとニコニコと嬉しそうに笑いながら、こちらの邪推を嘲笑うかのように見てくるから困ったもので。
ドーモ、なんて可愛くない返事をするとまたくしゃっと笑うので、それがまた妙に気恥ずかしくなって、行こう、なんてさっさと歩き出した。それに気を悪くした風もなく、上機嫌で隣を歩くこの男は、一体何がそんなに楽しいのだろうか。答えが一瞬頭に浮かんで、すぐに違う違うと頭を振った。
店は案外近くにあった。そもそもあのコンビニだって駅からそう遠くないから、当然と言えば当然だろう。休日とはいえ、お昼にはまだ少し早い時間に入ったからか店内は程よい人数で、おまけに半個室みたいなテーブルに案内されたから、これは人の目も気にせず気軽に食べれるなと安心した。適当に頼んだ料理が運ばれてくる頃にはすっかりお腹が空いていて、二人して飛びつく勢いで箸を進めた。
「美味しい!」
「こいつは美味ェ!」
なんて、ほぼ同時に似たような感想を漏らしたから、おかしくなって二人で笑った。なんだか気が弛む。もしかしたら家を出る前からずっと緊張していたのかもしれない。それがきっかけとなって、今までの妙な気まずさはどこかへ飛んで行った。そうそう、エースと喋っている時はこんな感じだった、なんて一昨日までの感覚が揺り起こされて気分がよかった。そう、だから油断していたのかもしれない。
「こっちの馬肉チャーハンも美味しいよ、エースも食べなよ」
「……」
「エース?」
声を掛けたら、今の今まで楽しげに馬刺しに舌鼓を打っていた彼は突然沈黙した。箸を置いて、俯きがちになった顔を覗き込むと、すーすー、なんて吐息が聞こえてきた。いや、これは吐息なんてもんじゃない。顔をじっくり見ると、いつも笑顔のその顔はすっかり眠りこけていたのだ。
「いやいやいや…」
正直な感想を言うならば、何故寝たのか皆目見当もつかない。だって、ついさっきまで楽しげに喋って食べていたのに。冗談なのかと思ってしばらく見つめてみたが起きる気配は毛頭なくて、あ、これ本気寝だ、と気付いた時にはすっかり呆れ返ってしまった。そんなに疲れていたのだろうか、そういえば重要な案件を任されていたなんて話もついこないだしたばっかりだったし、あの時間にコンビニに来れるということは大概無理をしてたのかもしれない、あくまで憶測の域は出ないが。もしかしたら、彼も自分と同じようにあの時間を楽しみにしていたのだろうか。だからこそ、忙しくて食事中に寝るくらい疲れているのにこんな風に食事に誘ってくれたのかもしれない。なんて、自分にとって都合の良い考えばかり浮かんできて、妙に胸がざわざわして落ち着かない。そうとは限らないのに、そうだったら良いなんて思い始めて来てしまっているから始末におけない。
静かに寝息を立てる姿は普段の賑やかさと比べるとあんまりにも珍しくって、ついついじっと見つめてしまう。少しばかり鋭い目つきや、よく笑う口はすっかり隠れてしまって、散りばめられたそばかすがよく目立つ。今まであんまり気にしたことはなかったけれど、この人は結構かっこいい顔をしているのかもしれない。なんだか静かな彼を見るのは新鮮で、だからきっとこの胸のざわめきはその新鮮さに心が揺れているからに違いない。そんなことを思っていると少し癖のついた髪が揺れ、かくんと頭が下がった。下から覗き込むように見つめていた顔が、あともう少しで鼻先が触れるくらいまでのところまで近付いて来た。
「っ」
声は出なかったのか、出せなかったのか。店内だし、彼は寝てるし、声を出さないのは正解だったかもしれないけれど、それ以上にどくんどくんと鳴る心臓がうるさかった。もう少しで鼻先がぶつかるくらいの距離にドキドキしているのか、それとも彼の顔を間近で見ているからドキドキしているのか、どちらが本当なのかわかりたくもない。何故か身体はまるで張り付けにあったかのように動かなくて、引くことも進むことも敵わない。
どくん、どくん。心臓の音がやけに大きく聞こえる。まばたきすることすら出来なくて、ただ茫然と彼の顔を見つめていた。まるで時が止まったかのように感じていた、どくんどくんと大きい心臓の音と違って店内の賑やかさがやけに遠く聞こえて、はやくどうにかしなければと思うのにどうにもならなくて、誰か助けて、と思った矢先に、
「──んぁ?」
彼の瞼が震えて、低い声が響いた。その瞬間、まるで弾かれたようにばっと身体が引いた。ガタンなんて大きな音がしてしまったからか、驚いたように、でもまだ眠たそうに瞼をこじ開けて彼がこちらを見ている。
「どした?」
誰のせいだと。
「な、なんでもない…!」
どくんどくんとまだうるさい心臓に気を取られながらも、なんとかそれだけ返して箸を手に取った。誤魔化すように馬刺しを口に放り込んでいくけれど、頬は熱いし心臓はうるさいし、さっきまで堪能していた味はまるでしなくなってしまっていた。そんなこちらを見ては不思議そうに首を傾げながらも、さっきまで眠りこけていたとは思えない勢いで料理を食べ始める彼に少し安堵しつつ、未だに鳴りやまない心臓の音に嫌な予感しかしない。
まさか、そんな、嘘だ。こんな、まだ出会って2週間しか経っていない相手に恋だなんて、そんな馬鹿なことがある訳ない。まだ心臓がうるさいのはきっと驚いたからで、断じてドキドキしたとかではなくて。そう、これは事故みたいなものだから、きっともうちょっとしたら落ち着いて、この馬刺しの味を堪能出来るに違いない──そう思っていたのに、結局この日は味の良し悪しなんてわからなくなるくらい、ずっとずっと心臓がうるさかった。


その名前を知っているかい?

17/10/04