人生の上で緊張することは案外多い。
学生時代なら発表の場だったり、体育祭などのリレーを任された時だったり、愛の告白の場だったり。社会人になってからも、初めて行く取引先だったり、プレゼンの発表だったり、上司の多い飲み会だったり。それなりに緊張することには慣れていたし、やり過ごす方法だってなんとなくわかっていた。なのに、今自分は人生で早々ないくらいに緊張している。それもこれも、全部恋人のせいだった。
「今日、うち来ねェ?」
始まりはそんな一言だった。デートの約束をして、最早お決まりになりつつあるコンビニで待ち合わせた。今日はどこに行くのかな、映画なんかも最近観てないからいいなぁ、でも彼のことだから二時間もじっとしていられないかもしれないなぁ。なんて、呑気なことを考えていたらとんでもない爆弾が落とされてしまった。
驚いて目を丸くしながら彼を見つめると、少し気まずそうに視線を逸らされてしまった。いつだって真っ直ぐにこちらを見てくる彼らしくない行動だな、なんてぼんやり思いながらも、彼の言葉の意味を考えていた。
家に呼ばれる、二人っきりになる、つまりそれは下心があるというところだろうか。恋人になってまだ日が浅い我々には少し気が早いのでは、と思うがそんなカマトトぶるような年齢でもないことに気付いて少し悲しくなった。そう、残念ながらもう若くないのだ。そりゃあ、自分だって数は多くないにしろそれなりに恋愛をしてきた。学生時代は手紙で呼び出しなんかしたり、手を繋ぐことにやっきになったりもした。でもそれは、もう随分昔の話で。社会人になってからは仕事が忙しかったし、出会いもそうなかったのでとんとご無沙汰だったのだ。
特別、彼氏が欲しいと思ったことはなかったし、漠然と彼氏が居たらどういう気分なんだろうか、なんて考えるくらいには枯れていたと思う。それがいつの間にか、ひょんなことから知り合った年下の男を恋人にしているんだから驚きだ。自分だって驚いている、まさか出会って1ヶ月もしない内に恋人に収まるなんて到底思いはしなかった。でも、恋人になってからも彼は優しかったし、紳士だった。手は握った、キスもした。でもそれは、触れるだけのそれで、今時高校生だってもう少し進んでいると思う。思うが、だって、なんとなくそういう雰囲気にならなかったのだ。
彼もそのことを気にしていたのだろう、だから性急に家になんて誘ったのかもしれない。そういうことなら、断る理由はなかった。そりゃあ恥ずかしい気持ちはあるけれど、自分だって彼のことは好きだし、先に進みたい気持ちがある。だから、すごく恥ずかしいけど、勇気を振り絞ってくれたかもしれない彼の言葉を無下にする気にはなれなかった。
「いい、よ?」
今思えばこの時にはもう緊張してたのだろう、声が裏返ってしまった。そんなかっこわるい返答に、彼は呆れることもなくぱぁっと顔を明るくさせたのだ。その顔に、どんなに弱いのか知っているのだろうか。
「じゃ、行くか」
ニッと爽やかに笑った彼に釣られるように笑みを浮かべながら差し出された掌をぎゅっと握った。
そうしてやって来た彼の家は、案外近かった。それもそうだ、だってあのコンビニに毎日寄っていたくらいだからそれなりの距離だろう。実は自分に会うために通っていた、と聞いた時は顔から火が出るんじゃないかと思うくらい真っ赤になったが、それ以上にひどく嬉しかったことをよく覚えている。連れられて入ったマンションはオートロックまで付いていて、中々どうして良いところに住んでいるんだなぁと思った。そういえば、3人でルームシェアしているんだっけ、と思い出してから、ふと気付く──ルームシェアしてるんだったら、誰かしら家にいるのではないか。
そう、そうだ、確か弟と3人でルームシェアしていると聞いていた。一人は同い年で、もう一人はまだ大学生だった気がする。そうか、すっかり勘違いしていたが、他に人がいるんだったらいくらなんでも最後までシないだろう。なんだ、一人で緊張して馬鹿みたいだ。
「どした?」
「ううん、なんでもない」
もしかしたらエースはただ単に家に招きたかったのかもしれない。そういえばデートはいつだって外出していたし、落ち着いたところというよりは賑やかで楽しいところが多かった。たまには二人でのんびり、なんて考えていたのかもしれない。まぁ、彼と一緒ならいつだって、どんな場所だって楽しいのだが。
すっかり気を弛めて部屋の前まで来時、鍵を探しながら思い出したようにエースがぽつりと呟いた。
「そういや今日──家に誰もいねェから」
どかん、と頭を殴られたような感覚。油断したところでしっかり狙いを定めて撃ち取る、その作戦、見事だと言わざるを得ない。
頬が熱くなるのを感じながら、どうぞと言わんばかりに大きく開かれた扉の中に、吸い込まれるようにして入っていく。これは、もう、後戻りが出来ない奴だ。
バタン、と扉が閉まる。それと同時にふわりと後ろから抱き締められた。鼻腔を擽る香りは、あの日、あの公園で感じたものと全く同じで、ぶり返したように更に頬が熱くなる。どくどくと心臓が早鐘のように鳴り響いて、それでも抵抗する気は全くしなくて。結局のところ、嬉しいのだ。こんなにストレートに求められて嫌な女は早々居ないだろう、少しばかり展開が早いような気もしなくもないが、そこはもうお互い大人な訳だし。
そろそろと回された腕に手を添えながら、彼を振り返る。普段ニコニコとよく笑うくせに、こういう時は嫌になるくらい真剣な顔をしているから困ったものだ。その姿にどれだけこちらが心動かされるのか、彼は少し知るべきかもしれない。
すぅ、と顔が近付いてくるから、あ、キスされるんだな、なんて思いながら瞼を下ろすと、とん、と軽い痛みが額に走る。思わずぱちくりとまばたきをひとつしながらよく見てみると、彼のトレードマーク、オレンジのテンガロンハットの鍔が額に当たっていた。よく使い込んであるとはいえ、大事に大事に使っているらしいそれの鍔は、新品ほどしっかりはしていないものの力にふにゃりと歪むほど柔くもなかった。
「…」
「…わり」
目が合うと、少し頬を赤くした彼はすっかり出鼻を挫かれてしまったのか、腕を解いてあっさりと離れて行った。離れて、促されるままに靴を脱いで、お邪魔しまーすなんてなんでもなかったように振る舞いながらも、内心では心臓がばくばくだった。よかったのか、悪かったのか。それは定かではないが、なんというか、キスする前より─未遂だったけど─よっぽど恥ずかしかったのは事実だった。



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部屋に通されて、あぁエースはこういうところで暮らしているんだなぁなんて妙に感心しながらきょろきょろしていると、先に腰掛けたエースがぽんぽんと隣を叩くから誘われるままに座る。座ってから気付いたのだけれど、そこはベッドで、隣にはエースがいて。ようやく治まっていたドキドキがまた再度復活するのにはそう時間が掛からなかった。
いつもはよく喋るくせに、こういう時は全然喋れないのはどういうことなのだろう。会話もなく、ただ座るだけということに対するこの気まずさは一体なんだというのか。
「け、結構広いね!」
「おう、まァな」
気まずさに堪えきれなくて何とか口を開いたが、即座に会話は終わってしまった。今時人見知りだってもうちょっと気の効いたことを言えるのではないか、と後悔しつつもやっぱりこの静か過ぎる空間に堪えきれなくてもう一度口を開いた。
「お、弟さん達、いつ帰ってくるんだろうね!」
そして、即座に後悔する。なんで、よりにもよって、その話題をチョイスした。
違うんだ、そう否定したくて顔を見ると、びっくりするくらい真顔の彼がそこにいて。どうしよう、そう思っても出した言葉は引っ込まない、人生において巻き戻しなんて機能は付いていないのだ。
すぅと寄ってくる顔に、思わず身体を引いたのは何故なのだろう。恐怖からか、恥ずかしさからか、失言からか、答えは全くわからなかったけれど、身体は本能のままに引いてしまう。ずるずるとそれを繰り返して、気が付いたら背中が壁にくっついていて、立とうと身体を返したら、ドン、と音がした。その音に身体をびくつかせながら確認してみると目の前には彼の腕があって、逃げ場が塞がれてしまったのだ、と気付いた時にはもう遅かった。
「、
名を呼ばれて振り返ると、もう片方の手で帽子を後ろに落とした彼の顔が近付いてくる。その一連の動きがまるで流れるようで、思わず見惚れたのは、ここだけの話にしておこう。逃げ場もなければ逃げる理由もなくて、そっと瞼を下ろすと存外柔らかい唇が触れるだけの口付けを落としてきた。
一回、二回、三回と繰り返していく内にふと気付く、彼の舌がこちらの唇を舐めていることに。気が付いた時にはもう遅くて、次の瞬間、唇を割り開くようにして舌が入り込んできた。そこからはもうなし崩しで、遠慮なんてものを知らない彼の舌は縦横無尽に口の中を犯してくる。それはもっとはやくこうしたかったと言わんばかりで、無性にたまらなくなっていつの間にか自分からも舌を絡めていた。一瞬驚いたように身体をびくつかせた彼は、嬉しそうに、安堵したようにふっと笑って口付けを続けていた。
ようやく離された時にはもうくらくらで、どちらのものかわからない唾液の糸をぼんやりと見送りながら息を整えていると、ぽすん、と肩口に彼の頭が落ちてきて。
「エース…?」
名を呼んでも、彼が起きることはなかった。どうしたのだろう、と思いながら何の気なしにそろそろとその髪を撫でると、ガバッと彼が起き上がる。
「ど、どうしたの?」
「悪ィ」
「へ?」
突然の謝罪に驚いていると、申し訳なさそうに顔を歪めた彼が可哀想になるくらい頭を下げていた。
どういうことかわからず、おろおろしているとぽつり、ぽつりと彼が唇を開いた。
「もっと、優しくしようと思ってたんだ」
それは、痛いくらいに伝わってきていた。
は、他の女みたいに扱いたくなくて、大事にしたくて」
いつだってエースの掌は、まるで壊れ物に触るみたいだった。
「なのに、おれ、つい我慢出来なくて──」
欲情した。なんて、こんなに真っ正面から言われたことはなかった。今まで数は多くないけれど付き合ってきた男性は彼らなりに優しかったけれど、こんなに自分のことを大事にしてくれたのは彼が初めてだった。それがこんなに嬉しいなんて、生まれて初めて知った気がする。
思ったが早いが、すうと腕を伸ばして大きな身体を抱き締める。びくりと震えた身体は、それでも大人しく腕の中に収まっていて、あぁ愛しいっていうのはこういうことを言うんだと心の底から思った。
「謝らなくていいよ」
そう、謝る必要なんてない。
「私だって、エースとこういうこと、したかった」
驚いたように目を丸くした彼はひどく可愛くて、そばかすだらけの頬にひとつ、つんと伸びた鼻先にひとつ、剥き出しの額にひとつ、そして最後に熱い唇にひとつキスをした。
「自分だけだと思った?私だって、期待してたんだから」
だから、いいんだよ。
額をこつんと合わせると、彼は導かれるようにして鼻先を合わせて、それからまた唇を寄せてきて。存外柔らかくて、熱い感触は癖になりそうだった。そうして、どちらともなく舌を絡めようとしたところ──
「ただいまー!なんだ、エースいんのかぁ?」
とてつもない大声に、ぴたりと動きを止めた。
「…」
「エースー?」
「っだァァうるせェ!聞こえてるわ!!」
ガバッと立ち上がった彼は、玄関で騒いでいる声に負けじと大声で返していた。肩を怒らせながら向かう姿はなんだか可愛くて、面白くて。くすくすと笑いながら耳を傾けると、どうやら弟が予定を繰り上げて帰って来たらしい。
あぁ、もうおかしくて仕方ない。ひとつ、ふたつ飛ばしくらいの速度で進んできた恋だから、たまにはこれくらいゆっくりでもいいのかもしれない、なんて思いながら、また頭がぼんやりするくらいのキスがしたいな、なんてこっそり考えていた。そうだ、今度はこちらから仕掛けるのも悪くないかもしれない。


アンダンテ

17/10/18