ドキドキする。あの人のことを思うだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。
溜息が出る。はっと気付いて慌てて辺りを見渡したが、今のところ誰もいなかったので安心した。いけない、いけない。外を掃いているだけとはいえ、店の前に立っている訳なのだから、店員として笑顔でいなければ。従業員が暗い顔をしていたら、店にまで暗い雰囲気が漂ってしまう。そんなことを許せるはずもない、優しい主人は心配してくれるかもしれないが、これは自分の問題だった。とはいえ、頭を悩ませることがあったことには変わりがない。溜息を吐く代わりに、空を見上げた。生憎と晴れ間は見えず、雲が多く掛かっていた。文字通りの曇り空はまるで自分の心のようだ、なんてらしくないことを考える。
あれは、一体なんだったんだろう。
考えたところで、当てもない疑問だった。この間、本当についこの間の出来事だ。常連の審神者が供にしている刀剣男士に、キスをされそうになった。
いや、もしかしたら気のせいなのかもしれない。顔に何かゴミでも付いていて、それを取ろうとしてくれたのかもしれない。でも、それにしたって顔が近かったような気がするけれど。問題は、キスされそうなくらい顔が近付いたことじゃあない、それを逃げようとも避けようともせずに受け入れた自分にあった。
あの時、ゆっくりと近付いて来る顔から逃れようと思えばいくらでも手段はあった。拘束されていた訳でも、壁に押し付けられていた訳でもない。ただ立って、竹箒を持っていただけだ。それなのに、近付いて来る瞳を見たら、身体が一切動かなくなった。心臓だけはやけにはやく動いていて、その癖、指先一本動かせなかった。それどころか、もっと近付いて欲しいとさえ思った──はやく視界を彼でいっぱいにして欲しかった。
「…あぁ、もう」
これは、まずい。実にまずいことになった。じっくりと考えれば考えるほど、彼のことで頭はいっぱいになるし、結論は最悪なものになる。こんな筈ではなかった、それなのに。
はぁ、とまた溜息が漏れる。全く厄介なことになった、これはどう折り合いをつけていくべきなのだろうか。
そんなことを考えると、不意に足音が聞こえる。顔を上げると、見慣れた審神者に、見慣れた刀剣男士が2名。その内の一人は、今まさに頭を悩ませてる張本人、にっかり青江──なのだけど、そうではなかった。
「いらっしゃいませ」
にこりと微笑んで頭を下げる。愛想よく挨拶してくれた審神者に目を細めていたら、後ろにいた彼と目が合う。ドキリ、としたのは正直な話で、だってしょうがないだろう、あの人とは違うとはいえ、全く同じ顔をしているのだから。
「ねぇ主、今日はここで待っていてもいいかい?」
思わず視線を逸らすと、何を思ったのかそんなことを言う。ばっと振り返ると、形の良い唇で弧を描きながらそれはそれは楽しそうに笑っていた。ひくっと口端が引き攣る。冗談じゃない、冗談じゃないぞ。そう思っているのに、彼の主である審神者はあっさりとそれを了承したし、もう一人の付き添いである清光はぽんっと肩を叩いてきたと思ったら、
「頑張ってねー」
なんて、とても薄情なことをのたまった。
斯くして、あの人とは違う青江と二人っきりになってしまったのだ。
「…」
「…」
自分から望んでここに残っているくせに、一言も口にしない。気まずい、気まずいにも程がある。そもそも、彼とは大して話したことなどないのだ。いつも審神者にくっついていたし、特別こちらに興味があるようなこともなかったし──先程の清光とは、そこそこ話していたけれど。何も話すことがないなら、二人と一緒に店に入ればよかったのに。こちとらその顔を見ているだけで胸がドキドキしてしまうのだ、違うとはわかっているのに。
「ねぇ」
「は、はい。なんでしょう、にっかりさん」
そんなことを考えていたこちらを見透かしているかのように声を掛けられる。思わず肩がびくついた、我ながら怯え過ぎだろう。ちらり、と視線を向けてみると、にまにまと楽しそうな笑みを浮かべていた。それと同時に思い知る──本当にあの人とは、違う人だなぁ、と。
「"僕"と、何かあったんだねぇ」
「え」
質問ではなく、確定事項になっていた。しかもそれが間違っていないから、尚更性質が悪い。強張ったこちらの顔をじっとりと見ては、楽しそうな表情のまま、歌うように続けていた。
「いつも愛想の良い君が、今日に限って視線を逸らした。しかも、僕にだけね。でも僕には何も覚えがない、君に何かしようとも思わない」
主一筋ですもんね。口には出さないでいたが、こちらの思っていることなんてお見通しなのだろう、うん、なんて機嫌良さそうに頷いていた。
「つまり、僕以外の"僕"が、君に何かをした。さぁ、どうかな?」
ご名答、一瞬の挨拶でそこまで見抜けるなんて鳥肌ものだ。拍手でも送りたい気分だったが、あっさり見透かされた自分が恥ずかしいやら居たたまれないやらで上手く顔を作れない。それを見て、うんうんと楽しそうに笑っている姿が憎らしい。同じ顔をしているのに、まるで別人だ。いや知ってたけど、よく存じ上げていたけれど。
「何があったんだい?」
「それは…」
言ってしまいたいような、言いたくないような。ここまでバレてしまったら、もう後は隠すことなんて出来やしないだろう。それでも言葉にするのを躊躇うのは、口にしてしまったらもう溢れて止まらなくなりそうだったからだ。
「大丈夫。さぁ、僕に身を委ねてごらん」
優しい言葉だ、それでも胸を躍らせるものではない。結局のところ、初めからわかっていたのだ。あの日、あの時、あの人と初めて話した時から。
「実は…──」
ことの顛末を全て話し終えると、ふむ、と顎に手を添えた彼は真顔のまま、まっすぐこちらを見ながらばっさりと言った。
「君、一体何を悩んでるんだい?」
「へ?」
予想だにしなかった質問だ。思わず間の抜けた声を漏らすと、彼は眉間に皺を寄せていた。
「僕には、もう答えは出ているような気がするけどねぇ」
ぱっと笑ってみせる姿は、あの人によく似ていた。目元の皺も、形の良い唇も、細められた瞳の色も、何もかも。
でも、違う。彼は、あの人じゃない。こんなにも人を悩ませて、こんなにも人の心を揺さぶってくるのは、たった一人だけなのだ。
「…でも、刀剣男士なんですよ」
「うん、そうだね。僕らは刀剣男士、それは変えようのない事実だ」
残念ながらね、そう続ける彼はどこか吹っ切れたような顔をしていた。もしかしたら、彼も同じように悩んだことがあったのかもしれない。それに答えをくれたのは、きっと店の中にいる審神者なのだろう。
「でも、」
まっすぐな瞳が、彼を思わせる。
「だからといって、想いに蓋をすることはないと思うんだ──あんまり抑えつけると、壊れちゃうからね」
ふっと微笑んだその瞳があまりにも綺麗で、何故だかじんわりと目頭が熱くなる。
本当は、ずっとわかっていた。初めて会った時から、きっとずっと好きだったのだ。きょとんとした顔も、居心地が悪そうな顔も、穏やかな顔も、澄ました顔も、びっくりするくらい綺麗に笑う顔も全部が愛しかった。大人で落ち着いているくせに時々驚くくらい純粋なところも、仲間をからかった時の話をする楽しそうな姿も、時代の流れに苦悶している姿も。ずっとずっと好きで、でも蓋をしていた。だって彼は刀剣男士で、神様だから。何の力もない自分が、何かを望むのはおこがましい。気持ちを伝えるどころか、そんなことを思うことすら身分不相応だとずっと自分を責めていた。
「好き」
「うん」
「私、青江さんが好きなんです」
「うん、そう」
堪え切れなかった涙がぽろぽろと流れてくる。一度口にしてしまえば堰切ったように溢れ出すこの感情はもうどうしようもなくて、でもすごく大切なものだった。
ひときしり泣いた後、目元を拭いながらそっと目の前の彼を見る。ん?と首を傾げる姿は当然のようによく似ていたが、やっぱり"彼"とは違う。それがなんだか面白くって、ついつい笑ってしまった。
「うんうん、やっぱり最終的には笑顔が一番だねぇ」
「ありがとうございました」
「礼には及ばないよ、ただの好奇心からのお節介だからね」
悪戯っぽく片目を瞑ってみせる仕草は、なんというか様になっている。この人も似たような気持ちになったことがあるんだろうか、と考えて、頭を振った。好奇心は猫を殺す、せっかく自覚したというのにあの人に会える前に殺されるのはごめんだった。
話が終わったところで、ガラガラと扉が開く。計っていたのかと思うほどのタイミングに目を丸くしていると、清光がこちらを見たかと思えば、ぐわっと顔を寄せてきた。
「ちょっと、化粧よれてる!何、泣いたの?青江に泣かされた?」
「え、いや、これは…」
「あーもう、ライン消えかかってるじゃん。ほら、はやく奥行って化粧直してきな」
「う、うん」
すごい剣幕に気圧され、言われるがままに店の中へと入る。途中、振り返ると少し怒ったような清光に詰め寄られていた青江が目に入る。さらりと清光を流しながらも、声を掛けてきた審神者に微笑む姿は慈愛に満ちていて、とても綺麗だった。
あんな風になれるだろうか、と考えて頭を振る。なれるだろうか、ではなくて、なるのだ。せっかく宿ったこの気持ちを、大事にしよう。多くは望まない、ただ話せるだけで良い。願わくば、たまにで良いからあの人の微笑みを見つめたい。
曇り空が過ぎ去れば
17/1/11