この街に暮らしていけるのは、自分の面倒は自分で見れる奴だけだ。
そう、言っていたのは誰だっけ。ぼんやりと考えながら、先程から耳障りなチンピラの言葉を左から右へ流す。
肩がぶつかってから、10分くらいだろうか。口汚く金銭を要求してくるチンピラに捕まっていた。こんな大通りで、こんなわかりやすい絡まれ方をしたことが未だかつてない。油断をしていた、余所見していた訳ではないが、ぼんやり仕事のことを考えながら歩いていたのが悪かった。まさかこんなことになるなんて。
往来の人々は勿論助けてなどくれない、そんなに優しい街ではない。大通りで立ち止まってる我々を迷惑そうに見ることはあっても、割って入って助けてくれるような善人はいない。居たとしても、その善人は真っ先に死ぬだろう、そういう街だ。それをわかっていて住んでいるのだから、文句を言える身分ではなかった。出来ることといえば、精々自分の運の悪さを呪って、いるかどうかもわからない神様という奴に中指を立てるくらいだろう。
さて、どうするべきか。幸い大通りで声を掛けられたということは、人混みに紛れることが出来るということで。隙をついて逃げれば捕まることはないだろう、こういう時小さな身体は役に立つ。
しかし、それを行うためには、まず打破すべきことがあった──このチンピラに今現在掴まれている腕をどうにかして剥がさなければ、逃げることは出来ない。
案外このチンピラは賢いらしい。ぶつかってすぐ、自分の姿を確認するや否やこうして腕を掴んできたのだから。一度振り払おうとしたが、強く掴み直されて痛みだけが残ってしまった。青あざになっていないといいのだが、この力だとそれも難しいだろう。
思わず溜息を漏らすと、気に障ったのだろう、チンピラが腕を掴む力を強くさせてきた。それだけならまだしも、ぐいと捻り上げられるから敵わない。こちとら見た目は子供に程近いというのに、なんともまぁ心ないチンピラだ。
痛みに思わず眉間に皺を寄せると、チンピラは愉悦そうに顔を歪める。笑っているのだろう、人の嫌がる顔を見てまともな思考の人間がする態度ではない。
──これは、結構まずいかも。はやくなんとか逃げ出すか、鞄にしまってある護身用のスタンガンを取り出さなければ、そう思った次の瞬間。
「お、おい!手ぇ、離せっ」
思いもよらぬ声が耳に届いた。示し合わせた訳ではないが、チンピラと同じタイミングで振り返ると、そこには自分とそう変わらない体躯の少年が仁王立ちしているではないか。癖の強い髪に、気弱そうな糸目、ぐっと拳を掴んでいるからだろうか、ほんの少し身体が震えていた。
「お、女の子に、よってたかってなにしてんだよ!」
声も、震えている。男性というには少し高い声音だ、きっと見た目通りの年齢なのだろう。それでも、足を震わせて尚、この往来の激しい大通りで彼だけが自分達に言葉を掛けたというのは、目を丸くするには充分すぎる出来事だった。
「…なんだぁ、お前」
間の抜けた声に、チンピラが少年を舐め腐っていることはよくわかる。自分だってその立場なら、そう思うに違いない。一目見て、彼は弱い子供だと認識できるからだ。武器も持っていない、だぼだぼの服に頼りない体躯、その上震えているときたら、誰だってそう思うだろう。
「ぼ、僕のことなんか、どうだっていいだろ!彼女を離せ!」
それでも、この少年は逃げ出すこともなく、ただ自分の解放を口にしていた。その真剣な顔立ちに、ざわっと胸の辺りが騒いだ気がするのは、気のせいだろうか。
「あぁ?んなもん、てめぇには関係ねぇだろーが、邪魔すんなガキィ」
対してチンピラは、余裕綽々で凄んでいた。当たり前だ、少年との体格差は歴然、彼の風体からして金銭で解決出来るような財力はない。それならば、まだ自分からむしりとった方がマシな収入になると考えたのだろう。こういう手合いは己の利益についてだけ、異様に計算がはやい。
「関係はっ」
ない。実際この少年には、なんの繋がりもない。
「──ある!」
「…え?」
思わず間抜けな声が出た。自信満々に言われてしまったが、自分と彼にはなんの関係性もない。
「…なんか、こう、俺が嫌だからだ!」
訳がわからない。嫌だから、そんな理由でまかり通る筈がない。しかし少年の顔は至って真剣で、それが嘘ではないということが痛いほどに伝わってくる。
ここはヘルサレムズ・ロットだ。異界と現世の交わる街、荒くれものが蔓延る街、ヘルサレムズ・ロット。それなのに、この少年はただ嫌だからと、見ず知らずの女の為に身体を震わせながら、たった一人遥かに大きな身体のチンピラに立ち向かっている。
先程のは気のせいなんかじゃない──少年を見ていると、なんだか胸の辺りがざわざわとする。
「てめぇよぉ、…そんなんで納得できる訳ねぇだろうが!」
チンピラは、呆れたように、でも凄むことは忘れないで怒鳴り付けた。ぶるり、自分と少年の身体がほぼ同じタイミングで震える。これは、純然たる恐怖と大声を出された驚愕から来る震えだ。
苛ついたらしいチンピラが、一歩、少年に向けて向けて踏み出す。自分の腕は掴んだままだ。それでも意識は少年に向いたのだろう、ほんの少しだけ力が緩んでいた。その上、今この男の視線は少年に一直線──逃げるなら、間違いなく今だ。
ぶんっと腕を大きく振り下ろす。そのお陰で解放されたこと、そして少年から自分を振り返ったことを確認してから、左足に重心を預け、チンピラの脛を目掛けて思い切り蹴りあげた。買ったばかりのパンプスの爪先が痛むかも知れないが、今はそんなの構っていられない。想像通りにチンピラが思い切り痛がっている様を横目に、驚いている少年に駆け寄って、ぼんやりしている彼の腕を取った。
「──逃げるよ!」
「へ!?」
間抜けな声をあげた少年を無視して、走り出す。驚いたままの彼は、されるがままに後ろを着いてきている。てめぇら!という耳障りな怒鳴り声が飛んできたが、そんなものは聞いていられない。
人混みの中を、するすると駆けた。時折肩がぶつかったり、誰かの足を踏んだり、落ちていた缶を蹴りあげたりしながら、走った。少年の手を離さないように、しっかりと握り締めながら、ひたすらに。
「あ、あの、えっと?!」
「黙って、舌噛むよ!」
手短に返したのは、後ろから待てこのクソが!なんて口汚い声が届いたから。ぐっと握る力を強くしてヒールを鳴らしながらひたすら走る。久々の運動だ、しかも混乱している少年付きだなんてお荷物も良いところだ。しかし、この手を離す気にはなれなかった。



:::



「…っ、ここまで、くれば」
ぜえ、ぜえ。息も絶え絶えの中、ようやく立ち止まった。
大通りから少し入った脇道、人はそこまで多くないが、居ないわけでもない。ここならば、よしんば追い付かれたところでまた逃げ出せる。そんな打算から選んだ場所だったが、自動販売機はあるしベンチもあったから幸運だ。水を買って、まだ息を整えている最中だった少年をベンチ強引に座らせた。ぼけっとしたまま口で呼吸している彼は、不思議そうにこちらを見上げているから、ずいっと水を差し出す。ちゃぷんと鳴ったそれを、受け取ることなくただほんやりと見つめていた。
「水、あげる」
「っは、ぁ、ありがとう…」
言葉を掛けてようやく受け取ったらしい少年は、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。上下する喉仏に、子供だと思っていた彼に少し男性を感じた。そういえば、握ったままだった手も案外武骨だった。そっと離すと、何故だか掌がじんじんとしたが、それを無視して隣に座る。それと同時に彼はぷはっと息を吸う、差し出した水は半分くらいになっていた。走らせ過ぎただろうか、そういえば自分の喉もカラカラだ。
「…巻き込んでごめんね、大丈夫?」
「えぇ、まぁ、お陰で昼飯戻しそうですけど…」
そりゃそうだ。さっきの大通りからここまで文字通りノンストップ、その上、往来の人を避けるためにクイックターンしながら走り抜けてきたのだから、多少胃がぐるぐるしても当然だろう。
「でも、お互い無事でよかったです」
少年は恨み言も言わずにただ笑った。疲れているだろう、気分が悪いだろうに、ははは、なんて笑いを滲ませるだけで特別こちらを責めることはなかった。
本当に、よかったと思っているのだろう。そんな顔をしながら、のほほんと水をまた一口飲んでいた。なんて、馬鹿な子だろう。
「お人好しだね」
「え?」
驚いた表情をした少年に、また胸がざわついたから。思わず、言わなくても良い言葉を口にしてしまった。
「この街で、そんな風に他人を気遣っていたら、その内に死んじゃうよ」
紛れもない本音だ、隠しようもない事実だ。
自分は大崩落が起きる前から紐育に住んでいて、どうしても余所に移る気にはなれなくてここにいることを選んだ。そりゃあ先程のような危険はいっぱいある、異界側どころか人間にも絡まれるような非力な一般人だ。それでも選んでここにいる、だから死んでも文句は言えないし、死なないように努力もしている──例えば、絡まれて困っている人を見掛けても助けないとか。
この街で生きていくための最低条件は、自分の面倒は自分で見れること。揉め事も無視、強いものが弱いものを貪ろうとしているのも無視。そりゃあそれに対抗できる何かがあれば別だが、ないのであればそうする他に術などない。薄情だと言われようがなんだろうが、お人好しは早死にする。事実、何人か知り合いとは連絡が取れなくなっていた、皆驚くほどに人の良い性格をしていた。
「君も、自分の身を守るだけで手一杯でしょ?それなのにこんなことしてたら、早死にするよ」
だから、もう二度としない方が良いと言外に込める。
ちゃぷん、と半分になった水が揺れた。少年は俯いていた、表情は見えない。
気を、悪くしただろうか。それもそうだろう、だってせっかく助けた人間に礼を言われるどころか、こんな説教くさいことを言われたら誰だって気分が悪い。それでも、彼に野垂れ死なれるのは嫌だなぁと思ってしまったのだ。
「…確かに、そうかもしれないっすね」
ぽつり、呟いた少年の声は優しい。
「でも、それでも──なんか俺、嫌なんです」
顔をあげた少年は、へらりと笑っていた。怒った訳でも、悲しんだ訳でもなく、彼は笑っていた。少し照れ臭そうに、でも意思だけははっきりと。
これは、何を言ったところで無駄なのだろう。こうと決めたら梃子でも動かない、そんな雰囲気だ。そんな彼がひどく眩しく見えて、思わず目を細める。なんて、まっすぐなんだろう。
「…そっか、余計なお世話だったね、ごめん」
「え!いや、あの、こっちこそ、せっかく言ってくれたのにすいません…」
わたわたと慌てたように身ぶり手振りしたかと思ったら、しゅんっと萎れるようにして最後は消え入りそうな声で謝罪された。まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、パチパチと瞬きを繰り返してしまう。
この少年は、恐らく本気で申し訳ないと思っているのだろう。こちらの不躾な言葉に応えられなくて、せっかくの忠告を無視してしまってと──なんて、馬鹿な子。
「ぷっ」
込み上げてくるものを我慢しきれずに吹き出してしまったら、あとはもうなし崩しで。けらけらと喉を鳴らして、腹を抱えて笑った。いや、多分笑う場面ではないのだけれども、なんだかもう笑うしかなかった。なんてお人好し、なんて馬鹿な子、なんて──
「──すごい子だなぁ」
笑いに混じって呟くと、おたおたしている少年は不思議そうに首を傾げた。その愛くるしい行動がまた一層面白い。
こんなにも普通な少年は、見た目通りの普通な思考をしているけれど、多分誰よりも頑固なんだろう。曲げない、折れない、逃げない。へこむことはあっても、彼の心はきっといつだってブロンズよりも頑丈だ。眩しい、あんまりにも眩しい。こんなにも真っ直ぐな人が、こんな街で、こんな自分を助けてくれた。居るかどうかもわからない神様に、立てた中指を折り込んで感謝の祈りを捧げたい気分だ。爽快だ、愉快だ、気持ちが良い。
「あ、あのー…」
笑いっぱなしのこちらを不審に思ったのだろう、少し表情を歪めながら彼は声をかけてきた。
「あぁ、ごめんね。あんまり君がかっこよかったから、ついつい」
「か、かっこいい!?」
「うん、かっこいいよ」
「えぇー…」
言われ慣れてないのか、少年は信用してなさそうな素振りも見せながら少し照れたように頬を掻いた。年相応のその反応に、思わず口許が緩む。
「さ、お礼しないとね」
「へ?」
「さっき助けてくれたお礼。お腹とか空いてない?あんまり高いのは奢れないけど」
「え、えぇ!良いですよ!」
わたわたと、両手と首を振りながら遠慮する様は、至って普通の少年だ。先程の眩しさと相まって、可愛く見えた。
「遠慮しないで、こう見えても働いてるから」
見た目からしてよく勘違いをされるが、こう見えても成人はとうに済んでいる。紐育生まれ育ったのだが、どうも東洋の血のせいか、同年代よりも大分若く見られてしまうらしい。しかし、発育は悪くとも年齢だけはきちんと重ねているので、収入だってそこそこある。
それを踏まえて付け足した言葉に、少年はまた一層強く首を振って、
「そうじゃなくて──貴方も俺のこと、助けてくれたじゃないですか」
真っ直ぐこちらを見て言うから、胸がざわついた。
「さっきチンピラから逃げるとき、本当だったら一人で逃げれたのに、わざわざ僕の手を引っ張ってくれた。お陰で僕も逃げれたし、おあいこですよ」
だから、お礼なんて良いんです。
そう言ってへらっと笑う少年は、あんまりにも眩しかった。本気でお礼なんて良いと思っているのだろう、慌てた様子はひとつもない。ざわざわと胸がうるさいのは、何故だろうか。
「…君、ほんとお人好しだね」
「はぁ、よく言われます」
あははと笑いながら困ったように頭を掻く姿は、年相応だった。ぐっと立ち上がり、くるりと彼を振り返ってその手を取る。思っていたよりも、きちんと男性の手をしていたことに胸が僅かに高鳴ったのは、気付かなかったことにしておこう。
「やっぱり奢るね」
「え?」
「そんなんじゃ、私の気が済まないって言ってるの」
「え、えぇ!?」
ぐいと引き寄せて、強引に立たせると少年の顔をほんの少し見上げる形になる。おろおろと困惑したような面持ちの少年に向かって、にっこり笑顔のまま告げた。
「ヒーローには、ちゃんと感謝しないといけないでしょ?」
面食らったように細められた糸目が少しだけ開く。綺麗な蒼が、ちらりと見えた。
「ひ、ひーろー…?」
「そういえばまだ自己紹介してなかったね、私は、君は?」
「れ、レオナルド・ウォッチ、です」
慌てたように掛けられた言葉に、一層顔を弛めて笑った。取った手を引いて歩き出す。まだ困惑しているレオナルドは、ぼんやりと後ろを着いてきていた。
「レオナルドくん、何が好き?」
「な、なんでも」
「なんでもは困るよ、パスタで良い?」
「は、はぁ」
未だにどうしたらいいのかわからない彼は、曖昧に頷く。それがなんだか面白くって、小さく笑ってしまった。
結局この後、先程撒いた筈のチンピラに見つかって、またひどい逃走劇を繰り広げ、彼の先輩だという粗暴な銀髪の男性に助けられたのだけれども、これはまた別の話。

困り顔のあなたはヒーロー

15/07/12