誠の恋をするものは、みな一目で恋をする。
そんな言葉を残した劇作家を知っている。詩的で、彼らしい言葉選びだと、その公演を観た時は思ったもので、幼いながら恋とはそういうものなのかと認識していた。
そして、実際はと言えば、その通りで。
一目で恋をした。小さな愛くるしい姿に、その割に思ったことは全て口にする様に。かと思いきやVIP相手に見せる口をつくラテンのような言葉運びと上品な仕草、そして柔らかく浮かべられる花開くような笑顔に。一目で、恋をしたのだった。
浅ましくも彼女を自分のものにしたい、そう思う前に、呆気なくその望みは薄いものだと突きつけられることとなる──彼女もまた、一目で恋をしたのだ。
ライブラの核となる存在。彼自身は、いつだって代えの効く部品だと思っているようだが、そんなに簡単に彼のような男がいてたまるものかと心底思う。いつだってライブラ、ひいては世界のために、命をああも簡単になげうてる人間はそうそういない。その甘い顔立ちと甘い声は、多くの女性を魅了するのだろう。少しばかり危うげな、いつどこかへ消えてしまうかもしれないと思わせるような空気さえも、彼の魅力のひとつだと思う。無自覚なのか敢えてなのかは検討もつかないが、その清廉なだけではない姿はひどく魅力的なのだろう。そして、その魅力に余すことなく恋に落ちたのは彼女も同じで。
一目で恋をした、そして二目には恋に破れていた。
「クラウスさん、何を読んでらっしゃるんですか?」
昼下がり、特別何か起こることもなく平穏に過ごしている執務室。趣味のプロスフェアーに打ち込むことも出来ず、ソファでぼんやりともう随分と昔から読んでいる本を手慰みに開いていた。何故か、その理由は明白で、雄弁で、恐らく自分でなくとも同じ状況になればこうする他にないのだろう。
「こら、クラウスの邪魔をしちゃあいけないよ。君には今日中にその報告書をあげるって任務があるんだからね」
「わかってますよー、スティーブンさん」
想い人と、その想い人。
いつもであればレオナルドやザップ、ツェッドやチェインが騒がしくも楽しげにこの物寂しい執務室を賑やかしくしてくれていたのだが、今日ばかりは別だった。レオナルドとツェッドはそれぞれの仕事に、ザップはいつものように賭場へ、チェインは今日非番だった。K・Kも今日は来る気配もない、ギルベルトという専属の執事は控えていてくれるものの、今現在は実質三人きりといっても過言ではないのだろう。神は試練を与えるのが趣味、そんな言葉を言っていたのは誰だったろうか、記憶の片隅にあった記憶をひっくり返してみるものの中々どうして正解は導かれない。
スティーブンの言葉に、花びらのように柔らかであろう唇をつんと尖らせてくるくると万年筆を回している彼女は、どうやら思うように書き進めていないようだ。珍しいこともあるものだ、普段の彼女は仕事がはやくて正確で彼も大いに褒め称えるくらいだというのに。
「…まぁ、息抜きくらい良いのではないだろうか」
助け船、そういうには余りにも心許ない言葉だったが、思わずついた言葉にやれやれとスティーブンは大仰なくらいに肩を竦めて両手を広げた。芝居がかった仕草だったが、流石彼がすると様になる。
「クラウス、君は甘い、甘すぎるよ。まるで砂糖菓子のような甘さだ。君がそうやって甘やかすから、彼女がいつまで経っても報告書をあげず、こうやって俺が見張るという状況が出来上がってしまうんだよ」
「こ、今回は仕方ないじゃないですか!急な来訪があったし!!」
「そう仕方ない、だから多目に見てあげて今日中と期限を伸ばしてあげただろ?」
ぐぬぬ、そう言いたげに唇を噛み締めながらスティーブンを見上げる彼女の瞳には鋭さよりも甘さが勝っていた。人の機敏に敏感なスティーブンであったらこれに気付かぬほど愚かではないだろうに、ことライブラの構成員からの想いに彼はいつだってその鋭さを発揮することがない。そつのない彼にしては珍しいくらいだが、それだけライブラという土台を信頼しているのだろう。もしもそれが崩れてしまえば、今後彼はほんの少しでも安らげる場所を失ってしまうということだ。彼女もそれをわかっているから、こうして想いを秘めているのだろう。誰にも言うつもりは毛頭ない、墓場まで持っていくくらいの気持ちなのだろう、恐らく気付いているのは自分くらいなものだ。皮肉なものだとスティーブンなら笑うかもしれない、だが自分はこう思うのだ──そんな密やか過ぎる彼女の力になれるのは、自分くらいなのだ、と。
「スティーブン、しかし私も少し気晴らしをしたい。彼女と君に付き合って貰いたいのだが、良いだろうか?」
「クラウスさん!」
「…クラウス」
提案に、ぱあっとまるで花開くように表情を明るくさせて顔を綻ばせる愛くるしい彼女に、やれやれと言わんばかりに肩を落として額に手を当てながら溜息を漏らすスティーブン。対照的だ、しかしその姿は自分の望みが叶うということを雄弁に語っている。
背後に控えたギルベルトへ視線を送ると、心得たとばかりにすぐさまキッチンへと下がった。有能な彼のことだ、すぐに自分好みの紅茶を用意してくれるのだろう。これで心置きなく、休憩という名の気晴らし、彼女とスティーブンの時間を少しでも長くさせることが出来る。
嬉しげに目を細めて、持っていた万年筆を投げ出してソファ、こちらの隣に腰掛ける彼女の愛らしさと来たら、思わず顔が弛みそうになるくらいだった。自分のこの想いは、彼女どころかスティーブンにさえ知られてはならないのだ。慌てて堪える、一文字に結んだ唇を見ても、彼女は脅えることなくにっこりと笑っていた。愛くるしい、そう表現することしか出来ない語彙の少なさが悔やまれる。あの劇作家の書いたソネットのように、彼女を讃える言葉がもっとあれば良いのに。
「仕方ないなぁ、少しだけだぞ」
「はい!」
「ありがとう、スティーブン」
「いいよ、俺も休憩しようと思っていた頃合いだしね」
全く君には構わないな、そう言って笑うスティーブンは穏やか極まりなかった。出動している時、他の面々がいる時、彼は少しばかり張りつめる。友のそんな姿を見ていると心配になるのは当然で、やはり少しでも安らげているのであれば何よりだと思う。そして、恐らく隣の彼女もそう思っているのだろう。小さく、ほう、と息を吐いた姿は安堵しているようで。
そういえば、ここしばらくスティーブンが働き詰めだったことを思い出す。なるほど、普段仕事がはやい彼女がギリギリまで期限を伸ばして報告書をあげない理由は、少しでもスティーブンに安らげる時間をと、そういうことなのだろう。彼女の報告書を受け取ればまた彼は働き出す、しかしあげなければそれまでの間は待機することになる。片手間に出来る仕事は全て終わっているのだろう、そうでなければ今も執務机に向かっている筈なのだから。聡い彼であれば気付きそうな、彼女らしい気遣いだったが、生憎と気付いた様子はない。彼女も彼女でそれで良いと思っているのだろう、ならば、その穏やかな時間を少しでも稼ぐことに貢献する、それが今の自分に為せる精一杯の援護だ。
スティーブンが隣に座ったところで、丁度ギルベルトが紅茶を運んできた。その芳しい香りにふと目を細目ながら一口、相変わらずの味にひとつ頷くとギルベルトは包帯の下で笑みを深めながら頭を垂れた。
「相変わらずギルベルトさんの淹れる紅茶は美味しいですねぇ…」
「あぁ、心が洗われるね」
「お褒めに預り光栄です」
にっこりと笑った有能すぎる執事は、彼女とスティーブンが好んで食べるお茶菓子まで用意していたから流石である。彼らはぱくりとその菓子を頬張って満足げに笑みを溢す。両隣のその微笑みに、思わずこちらまで頬が緩んでしまった。
しかし、ソファの真ん中に座ったのは失敗だった。一人がけに座っていれば彼女とスティーブンが隣同士になり、もっと彼女は幸福感の中で笑ったかもしれないと言うのに。そう思う気持ちは紛れもなく真実だ、それなのに彼女が自分の隣で紅茶と菓子に満足げに花開くように笑っているという事実が、この上ない喜びを与えるものだから困ってしまう。浅ましい、だが一度喜びを知ってしまったこの心は中々どうして収まることを知らないのだからほとほと呆れ果てるばかりだ。
「ところでクラウス、君はさっきから何を読んでいたんだい?プロスフェアーでもなく読書、なんて珍しいじゃないか」
困った自分を救ってくれるのは、やはり友であるスティーブンだった。彼だからこそ、自分はあっさりとその恋を手放すことを決めたのだ。例えば他の誰かであれば、諦めることもせず、恋敵なる人物とそして愛しい彼女へ立ち向かっていただろうに。その歩みを、止めることはしなかっただろうに。
「シェイクスピアの、ロミオとジュリエットだ」
「へぇ?」
「わぁ」
二人の反応は顕著だった。有名な悲しい恋物語、女性であれば憧れと共によく涙する話だろう。スティーブンは面白そうに片眉をあげて、彼女は少しばかり顔をしかめて、それぞれ正反対の反応だった。
「君がラブロマンスを読むなんて意外だな、いやでも古典文学としてもその作品は有名か」
「昔、観に行ったことがあってね、その時に購入したのだ」
「なるほど、だからそんな風な訳だ」
そんな風、つまりは少しばかり古くて読み癖がついて傷んでしまっている。それでも大事に扱ってきたからだろう、彼が言葉を選んだのはそういうことだ。
「初めてこの戯曲を観て、読んだ時に、こう思ったのだ──なるほど、恋とはこういうものなのか、と」
「君の口からそんな熱っぽい言葉が出るなんて、稀代の劇作家も光栄だろうよ。……さて、」
「へ、」
「そんなしかめっ面をしてどうしたんだい?君はシェイクスピアが嫌いだったのかな、それとも悲劇が嫌い?」
「な、なんで」
「だって君、こういうの好きだろ、劇とか映画とか。その君がシェイクスピアの話に食い付かない訳がない、そして恋愛に嫌悪を抱くほどの経験もない、つまり──鍵は悲劇。違った?」
流石、としか言い様のない推理だった。図星なのだろう、彼女は薄く色づいた健康的な頬をまるでシマリスような愛らしさで膨らませて、小さく呟いた。
「…スティーブンさんとお話してると、なんでもかんでも見透かされてる気分になりますね」
「流石の僕も心までは読めないよ、単なるロジックの積み重ねさ」
「だから、そういう気分になるって言ったじゃないですか、もう!」
「、すまない、君が嫌いとは知らず…」
「ああ、いえ、あの、クラウスさんは悪くないですよ!ただ、これは…そう、私の問題なんです!!」
「私の、問題」
復唱すると、彼女は小さく頷いた。俯きがちなせいだろうか、いつもより更に小さく庇護欲を掻き立てるその仕草に小さく胸が跳ねてしまう。隣のスティーブンは身を乗り出して彼女を見つめていたから、恐らく気付いていないだろう。助かったと思う、この想いは生涯告げることはないのだから、彼に知られてしまっては元も子もないのだ。
「悲劇って、好きじゃないんですよ──どうせ物語の中なんだから、幸せな方がいいじゃないですか」
「ロミオとジュリエットなら、好きって女性は多いだろうに」
「うーん、ロミオとジュリエットが一等苦手かもしれませんね」
「何故、と聞いても良いだろうか」
小さく頷いた彼女は、真っ直ぐと前を見据えていた。自分でも、スティーブンでもなく、ただ前を。その瞳には一点の曇りも迷いもなく、寧ろ情熱さえも感じられた。
「二人が死に至る理由が気に入らないんです」
はっきりと、明朗に答えは返ってきた。瞳と同じく真っ直ぐと芯があるその声音に、肌がざわついた。
「ジュリエットが死んだと思ったロミオが絶望して死を選ぶ、そして目が覚めたジュリエットがロミオの死体を見て絶望して死を選ぶ。…それが気に入らないんですよ、本当に」
「その理由は?」
「死がなんだって言うんですか。例え死んでも、彼が、彼女がそこにいた事実は消えない。思い出はなくならない。例えどう残酷に死のうが──いつだって、寄り添える」
がつん、と後ろから頭を殴られたような衝撃だった。死は終わりではない、死んだところで寄り添えば、それは紛れもない現実だと言いたいのだろう。
「でも彼女には会えない、彼にも会えない。もう二度とその肌の感触を、ぬくもりを、香りを味わうこともなければ、言葉も交わせない。笑顔も泣き顔も、二度と見ることは叶わない」
スティーブンの鋭い言葉が降ってくる、実際その通りだ。死は何も与えない、ただ奪っていくだけなのだろう。しかし彼女は、揺るがない。
「そんなの欺瞞です。思い出はなくならないんです、消えないんです、だからいつだってその肌の感触を、ぬくもりを、香りを味わって、言葉も交わせる、笑顔も泣き顔も思い出せる。寄り添うのはいつだって簡単です、忘れないこと、生きること、だからやっぱりあの結末は気に入らないんです」
「……それこそ、欺瞞だな」
ぽつり、呟いた言葉の割に、スティーブンは目を細めて笑っていた。眩しそうに彼女を見つめて、口端を歪めて、その蘇芳の瞳がほんの少し滲んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「まぁだから、私は多分愛する人が死んでも後追いなんてしてあげませんよ。彼が成し遂げたかったことを受け継いでやります」
「実に、らしいな」
本音を呟くと、彼女はふにゃりと笑みを象って恥じらうように頬を掻いた。その頬が薔薇色に色づいていることに気付いてしまったから、堪らなく心が弾む。思わず抱き締めたくなるのを懸命に堪えていると、ふはっと笑い声が耳に届く。
「薄情だね、悲しみもしないのか?」
「悲しんでる間に、世界が壊れたら困ります」
「そう?俺はいっそ、世界が崩れてしまえばいいのにとさえ思うかもしれないなぁ」
「嘘ばっかり、スティーブンさんだって絶対後追いしないでしょ?」
ぱちり、瞬きをひとつしたスティーブンは次の瞬間げらげらと笑い声をあげて肩を震わせた。図星なのだろう、彼らしいと思う。
「…そうだね、うん、そうかもしれない」
「ほら!」
そらみたことか、そう言わんばかりに胸を張る様はひどく可愛らしい。少女のような愛くるしい笑みを浮かべてその勝ち気な瞳を細める姿は、どうにもこうにも心を苦しめてくるから困りものだった。
「でもあれです、恋に落ちた二人の行動は素敵だなって思いますよ!家の事情とか、そういうのに立ち向かうのは素敵だなーって」
「あぁ、恋は障害が多いほど燃えるものだからね」
「なんか冷めた言い方ですねぇ……あ、クラウスさんは?」
突然降って沸いてきた言葉、そして彼女の宝石のような美しい瞳に見つめられて、思わず困惑を隠すことなく首を傾けると、彼女は花びらのごとき柔らかな唇を開いてこう続けるのだ。
「──後追い、します?」
考えるまでもない。
「私は、」
思わず口をついて出ていたのは、紛れもない本音で、それは愛しい人に対してだけではない。
「愛するものがそのような事態に陥らないよう──全力を尽くすのみだ」
その答えに、宝石のような美しい瞳がくるりと丸められたと思ったら、次の瞬間には細められて、花開いたような満面の笑みが出迎えてくれる。そして、背後からは、はっはっは!と盛大な笑い声。勿論、その声の主は友であり、頼れる仲間であり、恋敵──ではない、想い人の想い人であるスティーブンだ。
「君のそういうところが、俺はたまらなく好きだよクラウス!」
「私も、とっても好きですよ!」
「う、うむ、ありがとう」
二人の言葉に思わず礼を口にすると、二人はまた盛大に笑い出した。何か間違ったことを言ったのだろうか、困惑しているとぽんぽんとスティーブンに肩を叩かれた、どうやら気にするなということらしい。
「クラウスさんは、本当に誠実ですねぇ!」
にっこりと笑みを浮かべたまま呟く彼女に、心のなかで小さく否定を返す。
自分は、誠実などではない。浅ましくも狭量で、どうしようもないくらいに臆病者なのだ。友を失うことも、愛する人を困らせることも選べず、愛する人を応援することで、些細な幸せで自分を満たし、それで仮初めの満足感を選ぼうとしているだけなのだ。それこそ、欺瞞なのだろう。
だが、それでも──この二人の笑顔に、包まれていられるならば、その欺瞞を紛れもない現実にするべきだと、心の奥底から思うのだ。
まことなる欺瞞
15/08/10
リクエスト企画【スティーブン&クラウスで三角関係】
以下、リクエスト主様へ私信