目覚ましがなくとも起きられるようになったのは、一体いつからだったろうか。少なくとも、もう覚えていないくらい昔のことだ。この歳にもなれば、前日が余程遅かったり、酒を多量に飲んでいなければ、ルーティーン通りの生活を送れる。朝を迎える度と自然に身体が起き出すのだから、人間の身体というのは摩訶不思議である。
もぞもぞとシーツから這い出て、のそりと起き上がる。サイドテーブルに置いてある時計を見ると、時刻は普段より少し早めを指していた。アラームが鳴る前に起き出してしまうとは、なんとも度しがたい。
「くぁあ…」
まだ睡眠が足りていないのか、欠伸が出てくるものの、もう目はすっきり冴えてしまっている。寝起きがいいのは特別悪いことではないが、今日は休みだった。身体が休息を欲しているにも関わらず、満足に寝られないというのは考えもので。もう少し寝かせてくれれば良いものを、とルーティーン通りの生活にすっかり慣れてしまった身体を恨む。
ふと隣を見ると、ベッドを共にしていた彼女がいない。今日は確か、彼女も休みだったはずだ。先に目が覚めたのだろうか、珍しい。彼女より後に目覚めるのは随分と久し振りな気がする、と考えてから、そういうことを思い返せるほどにベッドを共にしたのだなぁと振り返り、どこか嬉しく思う。まさかこの歳になってから、そんな些細なことに喜びを感じるようになるなんて。
さて、と。
寝起き独特の倦怠感に包まれた身体を無理矢理起こし、本日の朝食は何にしよう、彼女の好きなベーコンエッグでも作ろうか等と考えながらリビングに向かうと、予想外の光景が目に入った。
その小さな背丈には到底合わない男物のシャツ─勿論自分のものだ─を下着の上に一枚だけ羽織り、台所に立っている彼女の背中。てっきりトイレかシャワーだろうと決めつけていたが、どうやら朝食の準備をしてくれているらしい。シャツの裾から出た足は生っ白くて、その上昨晩自分がつけたであろう鬱血痕が動く度にちらちら目に入るのだから目に毒だ。爽やかな朝だというのに、やけに蠱惑的な姿で、ちらりと欲望が顔を覗かせる。昨晩も随分その身体を、長々と堪能したというのに、我ながら若いなぁ。
「──♪」
人は上機嫌な時ほど、周囲に対する注意が散漫になるらしい。勿論例外もいるだろうが、彼女はその典型のようだ。鼻歌混じりに、フライパンを揺らしている彼女の姿にそんなことを思い出す。
こちらの存在に気付いた様子は一切なく、休みの家政婦に代わって、どうやらスクランブルエッグでも作っているようだ。その可愛らしい後ろ姿を、今自分が独占しているのだと考えるだけで、果てのない嬉しさが沸き上がってくる。いつもより少しだけ遅めの朝、愛する恋人が自分のシャツを羽織って食事の用意をしているなんて。最高だ、もしも神という奴がいるのであれば、今回ばかりは感謝したい。
彼女が紡ぐ鼻歌はついに佳境を迎えるようだった。しかし聞き覚えがあるのは確かだが、どうにも曲名が出てこない。このまま終わりまで聞いていたらわかるだろうか、音楽にはそこまで明るくないがここまで聞いてしまうと流石に気になる。
ふむと壁に半身を預けたその瞬間、皿を用意しようとでも思ったのだろう、振り返った彼女と目があった。やれやれ、もう少しばかり、この贅沢な朝を眺めていたいと思ったのたが。
「おはよう、」
「…おはよう、ございます」
挨拶を返した彼女の顔は、どうにも浮かない様子で。先程までの楽しそうな雰囲気は一体どこへ行ってしまったのだろう、この反応は予想外だ、何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。顔を見せただけで可愛い恋人に顔を歪められるとは、流石に傷付く。
じっと、見つめてくるその表情は不穏極まりなく、昨夜のような色っぽい雰囲気は微塵もなかった。せっかく二人っきりの朝なのだから、もう少しなんかあるだろう。何かしたっけと思い返してみるが、心当たりはまるでなかった。
「…どうかした?」
「聞いてた?」
何を、というのは聞くまでもないだろう。不機嫌そうな顔の理由は、どうやら鼻歌にあったらしい。聞いていたけど、そのことに何の問題あるのだろう。
さて、ここで素直に答えるのは簡単なのだが、その必死そうな顔を見ていると、どうにも悪戯心が擽られて仕方ない。男というのはいくつ歳を重ねたところで、根本的には変わらないようだ。
「何を?」
質問の意図を重々理解した上で、敢えてそう問い掛けると彼女は安堵したように息を吐いた。顔色ひとつ変えずに、平気で嘘をつけるのだから自分という人間は本当にタチが悪い。いや、正確には嘘などついていない、真実を話していないだけだ。きちんと確認もせずに、断定するのは感心しない。だからこういう悪い男に付け入れられる。
「なんでもないです。ご飯、今から盛り付けるんで食べましょ?」
あっさり騙された彼女に色々不安が過るくらいだ。彼女は一応このヘルサレムズ・ロットで一人暮らししている筈なのだが、こんなことで本当に大丈夫なんだろうか。自分以外の悪い人間に騙されていないといいのだが。
既に何回も我が家に泊まっている彼女は、食器の位置も把握したようで、迷いなく棚から目的の皿を見つけ出す。彼女の背に対して、その場所は少し高い位置にある。皿を取ろうと爪先立ちになると、シャツの裾がふわりと揺れる。うん、いい眺めだ。結婚願望は強い方ではないのだが、もしも彼女としたらこんな感じだろうかと考えると自然に笑みが零れてくる。
「…スティーブンさん?」
目的の皿を手中に収めて振り返った彼女は、不思議そうに首を傾げた。その愛らしさに、自然と頬が弛むのを感じる。
「どうか、しました?」
「いや、いい眺めだなーと思ってね」
「……えっちぃ」
こちらの意図を汲んで、悪戯っぽく笑う彼女に欲望がまた顔を出す。実年齢より若く見られることの多い彼女は、こういう時に限って年相応な対応をする。照れる訳でもなく、こちらをからかうように告げるその唇はひどく艶っぽい。どちらがえっち、なのだろう。掌の上で転がされているような感覚だ、こういうのはあまり慣れていないのだけれども、これはこれで悪くない。
「──そういえば、さっきの、なんて曲だっけ」
しかし負けっぱなしは性に合わないし、何より男として主導権をはいそうですかとあっさり明け渡す訳にはいかない。
彼女は一瞬呆けて、それから途端に顔を赤くする。
「…聞いてたなら最初っから言ってくださいよ!」
「だから、聞いてないとは言ってないだろ?」
「へりくつ」
唇を尖らせる彼女は、やはり可愛い。思わず笑ったのが気に入らないらしく、ふいと顔を背けられてしまった。
こちらの質問には答えず、黙々と盛り付けをスタートさせる彼女はどうやら少しだけ拗ねているらしい。別に鼻歌くらい聞いてたって良いじゃないか、何をそんなに気にしているのだろう。
後ろからぎゅ、と抱き締めてみる。一瞬動きを止めるものの、またすぐに再開された。これくらいじゃ誤魔化されてくれないらしい。困ったなぁと思うのと同時に、ほんの少し楽しくなってきた。くるくると感情のままに動く彼女を見るのが、自分は結構好きらしい。
「──ごめん、怒った?」
素直に謝ると、不貞腐れたような顔をした彼女は手を止めて見上げてくる。大人な彼女は、一度でも非を認めた人間を強く責められないらしい。
「…ずるいなぁ、もう」
「今更だよ」
「開き直るところじゃない」
頬を引っ張られた。あまり痛くないが、大袈裟に痛い痛いと訴えたら、ざまぁみろと返される。ひどいなぁ。
ふう、と溜息を吐いてから彼女は頬を解放してくれた。大して痛くはなかったが、少しじんじんする。腕の中の彼女は、不意に視線を逸らすと、もじもじと指を遊ばせていてなんだか小さい子供のようだ。
「──愛のあいさつ」
「え?」
「さっきの鼻歌、聞き覚えなかったですか?」
あった、だが曲名までは出てこなかった。なるほど、言われてみると確かそんなタイトルだったような気がする。
「作者のエルガーは、この曲を結婚相手に捧げたらしいです」
「へぇ、よく知ってるね」
曲は聞いたことがあったが、そんな背景があったとは知らなかった。
不意に、抱き締めていた彼女の重みを感じる。どうやら、こちらに体重をかけてきているようだ。大した重みではないのでそのままにさせていると、ぽつり、彼女が呟いた。
「…なんか、こうやってご飯作ってたら、結婚したらこんな感じなのかなーって思って、それで、つい」
ぐらり。恥じらいながら、でも確かに告げられたその言葉に目の前が眩む。こんなに可愛い生き物が、いていいのだろうか。
要するに、彼女は食事を作っている間に自分との未来を感じてつい覚えのある曲を発してしまったと、そういうのとで良いのだろうか。思わず片手で口許を隠す、なんだそれ。
「え、えぇ、呆れないでくださいよ!」
いや呆れているのではない。
「そりゃ、あの、流石にこの歳ですし、やっぱりその、結婚とか、憧れはありますし」
そうだろうね、女性にとって結婚というのは重要だろう。
「あ、でも、あの、別にこのままでも、十分なんですけど」
──つい、もしそうだったら、これ以上ないくらい幸せだなって。
聞くがはやいが、ぐい、と彼女の顎を掴んで無理矢理上を向かせる。少し辛いかも知れないが、今はそこまで優しくしてやれない。覆い被さるようにして、低い位置にある彼女の唇を強引に奪った。悪いけど、全部君のせいだ。
最初から半開きだった唇に、舌を無理矢理滑り込ませる。驚きからか引っ込みがちだった彼女の舌を軽く吸うと、苦しそうに吐息が漏れてそれがまた一層心を堪らない。舌を絡ませ、裏筋を擽るようになぞるとびくりと肩を震わせる姿が愛らしい。
「ん、…ふ、ぅ」
時折漏れる声に、今どれだけこちらが興奮しているか、彼女はきっとわかっていない。上顎を擽ってから舌先で歯列をなぞってやると、いつの間にやらその気になってくれたらしい彼女が、今度は自分から舌を絡めてきた。経験があまりないらしい彼女が拙いながらも懸命に、こちらの口付けに応えようとする様はとてもいとおしい、そしてそのいやらしさにくらくらする。どれだけ夢中にさせれば気が済むんだ。
「、はっ」
唇を離すと、半開きのまま空気を取り込む姿はそれこそいやらしい。自分のものか彼女のものか、唾液で濡れた唇がまたこちらの欲望を刺激する。
「やらしいかおしてる、なぁ」
それはこちらの台詞だ。まだ息も整っていないくせに強がる彼女は、小さく笑ってこちらを誘うのだから始末におけない。せっかくの朝食も、味わうのはもう少し先になりそうだ。
「──続き、する?」
「…えぇ」
不満げな声とは裏腹に、その視線は熱い。ぐるりと彼女の肩を掴んで、強引に身体を反転させる。
今の関係に不満はない、十分すぎるくらい幸せに満ちている。でも、それよりも先に進むことも悪くない。何より、こんなに愛らしい彼女が、自分の傍にいることを望んでいてくれるなんて。
「愛のあいさつ、ね」
「?」
「覚えておくよ」
いつか、この先の近い将来。夜景の綺麗なレストランがいいだろうか、ムードたっぷりのホテルでもいい。彼女に似合うであろう宝石を散りばめた、サイズぴったりの指輪を用意しよう。そしてピアノの繊細なメロディが響く中、君に永遠の愛を誓う──うん、悪くない。
もしもその時に、彼女が覚えてくれていたら、その時はやっぱり素直に教えよう。この時、君と全くおんなじことを考えていたんだよ、と。君は笑ってくれるだろうか、笑ってくれたら嬉しいなぁ。
未来に鼻歌
15/06/03