ふと、魔が差した。そう形容するのが正しいと思う。
爽やかな朝、彼が作ってくれた朝食を綺麗に食べきって、シンクに食器を置いたその時。ダイニングに腰掛けたまま新聞を読む、彼の項が目に入った。いつもであれば、ネクタイがきっちりと締められて、襟元がかちっと窮屈にそこを覆っていたのだろう。でも、今日は違った。違ったが故に、吸い寄せられるようにして、ふらふらと彼の背後に立ってしまった。
座っている彼の項は、丁度良い高さで、それがまた悪かった。立っていれば、自分の身長では届かないのに、今は少し屈めば楽に届く。だから、まぁ、自分だけのせいではないだろう。魔が差したのだ、彼が普段と違ってネクタイを締めていなかったのが悪かったのだ。そんな言い訳をしながら、襟足をするりと指先で擽るように撫でてから、唇を落とした。
最初は触れるだけ。次に音を立てて。そのまた次は一舐めする。次はどうしようか、噛みついてやろうか。そんな考えが浮かんだ頃、ようやく彼は肩越しに振り返る。その表情の、色っぽいこと。
「──朝っぱらから、どうしたのかな?」
問い掛けられて、そういえば朝からこんなことをするのは初めてだったなぁとぼんやり考えた。貴方の項が誘ってきたのが悪い、というのはあんまりにもひどい答えだろう。まるで彼のようだ。さすれば、素直に思い付いた言葉を答える他ない。
「魔が差しました」
彼はそんな可愛いげのない言葉に、ふと目を細めて小さく笑う。どこか満足げに見えて、なんだかむずがゆい。朝っぱらから、いや、この人はどんな時でもかっこよくて。そんなかっこいい伊達男が自分の恋人だなんて、今更ながらに信じがたい。
「感心しないなぁ、男の背後を取るなんて」
「気付いてたくせに、よくいいますね」
そう、彼は気付いていた。曲がりなきにも、戦闘のプロなのだ。彼の戦う姿を自分は見たことがないし、恐らく今後も見ることは敵わないだろうが、彼は戦闘で生きてきた男だ。気付かない訳がない、気付いた上で放置していたのだから始末におけない。
「朝食は足りなかった?」
「いやもう、満腹です」
「そう?てっきり食べられるのかと」
まぁ噛み付こうとは思っていたが。
「じゃあ、そういうお誘いかな」
「だったら、どうします?」
「乗らない手はないね、と言いたいところだけど──残念ながらタイムリミットだ」
長い指が、備え付けの時計を指差す。時刻はもうすぐ7時半、確かに支度を始めないといけない時間だった。
それならば仕方ない、戯れは終わりだ。肩を竦めて彼の背後から離れると、ぐい、と腕を取られる。そのまま身体を反転させられ、彼の正面にて止まった。はて、この状況は、一体なんだろう。にこにこ楽しそうな彼は、自分の身体を離す気などないのだろう。タイムリミットと告げたのはそっちのくせに。
「…どうかしました?」
「いや、ちょっと」
「タイムリミット、ですよ」
「誘っておいてひどいな」
くすくす笑ったのが気に入らないのだろう、彼は少し顔を歪めた。不貞腐れたような表情になった彼のご機嫌を取ろうと、仕方なしに先程と同じように身を屈ませる。今度は項に噛みつくのではなく、こつんと額を合わせてみると少し表情が和らいだ。時折この人は、子供のようになるから可愛くて仕方ない。
「続きは、今夜でよければお付き合いしますよ」
「…言ったね?」
あ、まずったかもしれない。思わず甘やかした言葉に、彼は瞳を光らせてしっかりと確認してきた。これは今夜は眠れないかもしれない、そう思った矢先に互いの鼻先が触れ合う。慌てて離れようとするが、時既に遅し。いつの間にか後頭部に添えられていた片手のせいで、もう逃げられない。手が早い、流石だ。諦めて目を伏せると、ちゅ、と可愛らしい音を立てた口付けがひとつ。
「──覚悟しておくように」
「ハイ」
こりゃあ今夜はとんでもなく乱されそうだ。やれやれ、と肩を竦めてみたが、結局のところ彼に求められるのは素直に嬉しい。こちらだって、彼を求めているのだ。今更恥ずかしい、とは思わない。はしたない、とは思うが。
へらり、と笑って見せたらもう一度口付けられる。あまり情欲の感じられない、戯れのキスだ。くすぐったくて身を捩ると、後頭部に添えられた手が悪戯を始める。
つぅ、と指先で襟足を擽るようになぞられると思わず肩が跳ねる。腕を掴んでいた手はいつの間にか腰に添えられていた。しまった、逃げられない。困惑して彼を見つめると、こちらの反応などはどこ吹く風と言わんばかりに楽しげに目を細めて笑っていた。タイムリミットとかいってたのは、どこの誰だったろうか。それでも、振りほどけないのだから自分も大概彼に弱い。
だが、時間は時間だ。身を捩り、もぞもぞと色っぽく動き出したそれを制するように手を添える。しかし、彼はそんな些細な抵抗は物ともしない。
「スティーブン、さん」
「ん?なに」
「そろそろ、準備しないと、ん…間に合わなくなるんですけど」
「俺が車で会社まで送るよ」
「だから、それだけは嫌だって」
「…もう少しだけ」
すり、と鼻を寄せられると思わず黙ってしまう。くそぅ、この人絶対、自分が甘えられるのに弱いことに気付いてるんだろうなぁ。
その間も襟足を擽る指先の動きは止まらないし、腰に添えられていた手もほんの少しいやらしい動きになっている。そりゃあ、こちらだって、許されるならばこのままもう少しいちゃいちゃしていたい。だが、しかし。
それでも躊躇っている自分にだめ押しとばかりに、唇が触れあわせてくる彼に、もうどうにも勝てなくて。ちくしょう。
「……会社の近くまで、送ってください」
悔しげに呟くと、彼はそれはそれは楽しそうに笑うから、もうどうにでもなれ。
:::
その日、仕事はやけにスムーズだった。以前あったような書類吹っ飛び事件もなければ、コンピュータートラブルもない。それどころか、仕事がさくさく進みすぎて手が余ったくらいである。先日までの忙しさはなんだったのだろうか、と少し黄昏てしまうくらいである。
そんな訳で無事に定時に上がり、最近めっきりご無沙汰な自宅へ戻る。この間帰ったのは、確か着替えを取りに戻った時だろうか。以前一ヶ月近く会えなかったことが契機となり、彼とはここ数ヶ月ほど半同棲のような日々を送っていた。一週間に一度自宅に戻ればいい方だなんて、家賃が勿体なさすぎる。もう少しは自宅に戻るかどうかしなければ、と考えるが彼の家があまりに居心地が良すぎてついついうっかり。大人として、このままでは良くないと思う。自分の私物も大分増えているし、家政婦のヴェデッドとはすっかり顔見知りだ。
久し振りの自宅が、見慣れないなんていうのは問題だ。以前は雑然としていた部屋が私物や私服を持ち出した今や、すっかり生活感がなく小綺麗になっている。
「…なんか、自分の部屋じゃないみたいだなぁ」
そんなことを呟きながらシャワーを浴びる。シャワールームも、普段より狭いなと違和感を感じてしまって、なんだか妙な気分だ。彼と出会うまではこれほど居心地の良い空間もなかったというのに。
まいったなぁ。唸りながらも、準備は進んでいく。完璧に支度を終えると同時に鳴る携帯、どこかで見られているのかと危ぶむくらいに見事なタイミングだった。
「もしもし」
『やぁ、仕事はどう?』
「順調に終わり過ぎて、今家で準備が終わりましたよ」
『そうなの?仕事終わりの少しくたびれた君も色っぽくて良いのにな』
「電話切りますよ」
『冗談だよ、俺のために着飾ってくれた君を邪険にするなんてとんでもない』
すぐさまこういう歯の浮くような台詞が出てくるのだから敵わない。ハイハイ、とあしらうように返すと、ひどいなぁなんて言葉が返ってくる。ひどいのはどっちだ。
『じゃあ、7時までには帰るから家にいて』
おや、珍しい。大抵こういう時はディナーから入るのがいつもの通例なのだが。意外な声で返してしまったのだろうか、電話越しの彼の声はより一層甘くなった。
『──朝からお預け食らっている身分としては、ディナーなんてしてる余裕はないんだよ』
ひぃ。思わず声が漏れなかっただけ、まだマシだった。まるでベッドの上を思わせるような低く、甘い声。この後されることが頭に過り、胸が高鳴って肩が跳ねた。
しかし、この人確か、今職場じゃなかったろうか。職場でそんな甘い声出してて良いのか。っていうかどんだけ余裕がないんだ。そんな皮肉も口には出来ず。
「はやく、帰ってきてくださいね」
なんて、慎ましやかとは言い難いニュアンスを含めて返してしまう。
電話越しに、ふっと笑われる。しまった、ついつい甘えるような声を出してしまった。
『寝室で待ってて』
ムードのない、直接的な表現だ。もう少しなんかあるだろうという気持ちと、たまらない言葉だという気持ちが交錯する。いつも余裕たっぷりの彼が、スマートじゃない誘い文句をくれる時、こちらがどれだけ胸を高鳴らせているか彼は知らないだろう。
「そういえば、」
『うん?』
「スティーブンさんって、項弱いんですね」
『…』
沈黙は、肯定だった。そう、いくらなんでも、ここまで余裕のない彼は珍しい。自分の行動が原因というのは嬉しいけれど、結構彼はきっちり公私を分けるタイプであるからして。朝のあの時間に、本当にギリギリまで、戯れにいちゃいちゃするようなタイプではないのだ。そして、ディナーもすっ飛ばしたお誘いに、確信を得る。
「朝のは、気持ちよかったですか?」
普段勝てないのを良いことに、ここぞとばかりにからかいの言葉を向ける。普段ベッドの上でからかわれてる身分だ、たまにはこちらだって優位に立ちたい。そんな気持ちで、ほんの悪戯心で問い掛けた。
『──気持ちよかったよ』
そうしたら、予想外に素直な言葉が返ってきて、思わず目を丸くしてしまった。彼のことだから、どうせ認めないだろうと、それこそこちらのことを持ち出してからかってくるのだろうと踏んでいたのに。
『まさか、あの君が朝からあんな風にモーションを掛けてくるなんて思わなかった。本当は、すぐさま君の中にぶちこみたいくらい興奮したね』
「へ、へぇ」
『だから、帰ったら手加減しないよ』
あ、やばい。これは、薮蛇どころではない。
『お付き合い、してくれるんだろ──?』
「………はい」
伊達男の彼が、上品な言葉をかなぐり捨ててのかなり直接的な誘いに頷く他、術はない。彼は満足そうに笑っているだろうか、そうだといいなと思う。
電話を切るともう時間は限られていて、慌てて家を飛び出した。カツコツカツコツ、ヒールを鳴らしながら走って行く。7時に間に合わなければどんな目に合うかもわからない。明日も仕事だ、なるべくならばお手柔らかに頼みたいものだが、先程の電話を思うとそうも行かないだろう。
まぁ、でも。それはそれで。悪くないと思ってしまっているから、結局のところ自分も興奮しているのだ。はしたない女と笑ってくれていい、求めているのは彼だけでなく、自分も同じなのだから。
上品さに欠ける朝
15/06/08