人間、本当に疲れると身体の四肢が脱力するものらしい。
連日の残業、短い睡眠時間、そして止めを刺すような肉体労働に、身体は限界を訴えた。それでも、気力で仕事を終わらせて、フラフラになりながらも家路へと辿り着いた自分を褒めてやりたい。
爪先まで力は入らず、膝は曲がらない現状だ、平時よりも大分時間をかけてアパートメントの階段を上る。ようやく、ようやく待ち望んだ家だ。もう何もしたくない、ベッドでただ眠りたい。そんな逸る想いとは裏腹に指先は重く、緩慢な動きで鞄からキーケースを取り出した。
ゆっくりと、鍵を差し込んでぐるり。がちゃん、と音がして解錠を告げる扉は、いつにも増して重たかった。ぐっと最後の力を振り絞るようにして、なんとか扉をこじ開ける。よろよろとふらつく身体は、文字通り極限状態だった。我ながらよくここまで無事に辿り着けたと思う。
一歩一歩、踏み締めながら廊下を歩く。本当はもうこのまま寝転がってしまいたかったが、最後の理性がせめてソファーまで頑張れと言っていた。
しかしながら、一歩一歩、確実にソファーへの道のりを進んでいた足は、不意に止まる。有り得ないものを見たからだ、人間疲れていても信じられないものが目の前に広がると自然とその足は止まるものらしい。
「──おかえり、…ひどい顔だね」
嘘だろう、と思った。いや、確かに鍵は渡していた。彼の部屋を貰った時に、使う頻度は少ないだろうがお返しだ、と。今まで他人に合鍵を渡したことなどなくて、ひどく緊張したことを今でもよく覚えている。しかし、彼はそれを使ったことは一度もなかったのだ。あんな立派な家に住んでいる彼には、この部屋は狭すぎたのだろう、と勝手に思っていたくらいだ。
背広を脱いで、ネクタイもしていない彼の襟元は寛いでいる。そんな姿を、まさか自分の部屋で見ることになるとは。いや、もしやこれは夢か幻ではないだろうか。だって、いるはずもない。連絡もせずに家に来るほど、彼は不躾ではない。
「……幻覚かな?」
「随分な言い種だね、本物だよ本物」
「だって、連絡来てない…」
「一応、今日は君の家に行くと、昼頃にメールいれた筈だけど」
最早、昼頃の記憶は朧気だった。いや、しかしながらよくよく思い返せばメールが来ていたような、来ていなかったような。今更だが、今日は昼ごはんすらまともに食べていないことを思い出した。栄養ドリンクで済ませて、携帯電話を確認することもなく、肉体労働に勤しんでいた気がする。
それでは、これは本物なのだろうか。ずしんと鉛でも入っているのかと疑問に思うくらいの右手を、ゆっくりゆっくり伸ばして、立ち塞がっている彼の胸元にそっも添える。あたたかい、人肌だ。
「…本物だぁ」
「うん、納得してくれたようで何よりだよ。さて、取り敢えずシャワー浴びようか」
「えぇ」
「そのままで寝ると疲れも取れないだろ?」
「うーん…」
「それとも、俺が君の身体を洗おうか?」
それは流石に。思わず顰めっ面をすると、彼の表情もほんの少し歪んだ。誤解をしないで欲しいのだが、洗って貰えるならこれほど楽なことはないし、彼に身体を見られることに対する抵抗はほんの少ししかない。しかし、いくらなんでもプライドが許さなかったし、洗って貰っている内にそのまま寝落ちという可能性もある。
「嫌ならはやくシャワー浴びておいで」
ぐい、と腕を引っ張られたと思ったら、スタスタと歩く彼にまるで引き摺られるようにしてバスルームに連れて行かれる。その上、まるで投げるように脱衣場に入れられてしまった。怒られせてしまっただろうか、せっかく来て貰えたというのに大したもてなしも、可愛さもなくて申し訳ない。
取り敢えず、彼のいう通りにシャワーを浴びてからしっかりと謝罪をしなければならない。シャツの釦を緩慢な動きで外している内に、ふと鏡を見ると、なるほど確かにひどい顔をしていた。隈は勿論のこと、肌荒れだってひどい。口は半開きで瞼も重い。以前も、ひどい顔で彼と会ったことがあった気がするが、ここまでひどくはなかっただろう。最愛の恋人と会うには相応しくない顔だった。幻滅されていたらどうしよう。まだ微かに残っていた乙女な心が、更に気持ちを重くさせた。



:::



シャワーを浴びると、少しばかり頭が冴えた。風呂というのは疲労回復の効力があると言われているが、どうやら本当らしい。汚れを落とした自分の身体は、先程よりは幾分かすっきりしていた。気持ちばかり足取りも軽い、それでも平時よりは大分遅く膝もあまり曲がらないのだが。
バスタオルを首に掛けて、まだ濡れたままの髪の水気をすってもらう。のんびりとリビングへと向かうと、そこにはエプロン姿の彼と暖かいスープが待っていた。いい匂いだ、と思うと急にお腹が空いてくるから人間というのは不思議なものだ。
彼はローテーブルに、スープを置くと傍に寄ってきて優しい手つきで頬を撫でてくれた。ほっとしたような顔をしている気がするのは、都合の良い妄想だろうか。
「少し、マシになったか。…本当はご飯が良いんだろうけどその様子だと胃も弱ってそうだから、取り敢えずこれ食べて」
言うがはやいがこちらの意見も聞かずに、またぐいと腕を引っ張られる。そのままソファに座らされたかと思ったら、ローテーブルに置いてあるスープが自分の手元に移動していた。鮮やかな手付きだ、どれだけ面倒見がいいのか。
口に含んだスープの味は、筆舌に尽くしがたい。柔らかな具材に、疲れた舌に丁度良い薄味、そして何よりあたたかい。スープってこんなに美味しかったっけ、ご飯ってこんなに美味しかったっけ。そういえば、昨日からまともにご飯を食べていない気がする。ぐす、と鼻を啜ったのは、スープがあんまり温かくて鼻の粘膜を刺激されたからだ。断じて、泣いている訳では、ない。
一日ぶりのまともなご飯は、ひどく美味しくて、ひどくあたたかくて、いつもより数倍の時間をかけて腹へとおさまった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
両手を合わせて、深々と頭を下げると彼はくしゃりと髪を撫でてくれた。その優しさに、じんわりと視界が滲む。見上げると、眉尻を下げて心配そうな顔が自分を見つめていた。こんな顔をする彼は、初めて見るかもしれない。
「スティーブン、さん」
名を呼ぶと、ほんの少し安心したように見えた。ぽすん、と隣に腰掛けたと思ったら、いつの間にかその腕に包まれていた。あたたかい。すぅ、と息を吸い込むと彼の匂いが自分の鼻を擽った。いいにおいだ。思わず目を閉じるとぽつり、と耳に馴染む声が落ちてくる。
「…忙しいのはわかるけど、少しは自分の身体を大事にしてくれ」
「面目ない…」
「帰ってきた君を見て、ぎょっとしたよ」
「幻滅、しました?」
「そういう話をしてるんじゃない」
怒られてしまった。
「血の気もない恋人の顔を見て、俺がどんな気持ちになったかわかる?」
「そんなひどい顔してましたか」
「ひどいなんてもんじゃないよ、寿命が縮む勢いだ」
それは少し大袈裟じゃないだろうか。もぞり、と顔を動かそうとすると、ぎゅっと抱き締められる。その腕のあたたかさの、心地よさといったらない。
「少しは、甘えてくれないかな」
「十分、甘えてますよ?」
「今はね。でも君は、いつも何も言わない」
「…そんなことは」
「ある」
言い切られてしまうと、もう口をつぐむ他ない。だって、彼は自分なんぞより余程忙しい。何せ世界の均衡を保つために日夜身を削っているのだ。そんな彼を甘やかすことは出来ても、甘えることなど出来やしない。負担になるのは、ごめんだった。
「そんなに頼りないかい?」
そういうことではない。
「料理だって出来るし、他の家事もある程度はこなせる」
その腕は先程思い知ったところだ。しかし、彼だって忙しいだろう。
「仕事だって、今はそこまでじゃない。君の面倒くらい見れるよ」
心の中が読めるのだろうか。思わず顔をあげると、彼は苦笑を滲ませた。
「──君の考えることくらい、お見通しだよ」
なんて、殺し文句までつけてきたから始末に置けない。
そろり、と彼の腕に手を添えると、更に強く抱き締められる。少しばかり、苦しい。でも、それが心地よい。じんわりと、あたたかいものが自分の胸に広がっていく。
「…迷惑に」
「ならない、恋人にかけられる迷惑は迷惑じゃない」
「じゃあ、」
甘えてもいいのだろうか。
今日の今日まで頑張った自分へのご褒美を、求めても罰は当たらないだろうか。
「──ひとつ、お願いしてもいいですか?」
「なに?」
問いかける声の、甘さといったら。噎せかえりそうなくらい甘い甘い声が耳元で自分を擽る。そのくすぐったさに目を細めて、お願いを口にする。
「膝枕、してください」
彼は、驚いたように目を丸くして、それからすぐにくしゃりと顔を弛ませて笑った。
「そんなことでいいの?──お安いご用だ」
彼の膝に頭を乗せてから、ふとまだ髪が濡れたままだったことを思い出す。スティーブンは、そんなことを意に介した様子もなく、濡れた髪を指先絡めて遊んでいた。
「具合はどう?」
「硬い」
「男だからね、そこは我慢してくれ」
「でも、きもちいいです」
「そう?それはよかった」
見上げた顔の穏やかさといったらない。彼のこんな表情を見れるのは自分だけだったらいいな、と浅ましくも思う。いとおしさが胸いっぱいで、口許がふにゃふにゃと弛みっぱなしだ。
彼の指先が、髪をいじる度に、どんどん瞼が重くなってくる。もう少し、このあたたかさを堪能していたいというのに。心地よさに身体を委ねろといっているようだ。
「眠いなら、寝ていいよ」
「でも、スティーブン、さん」
「いいから」
もう黙って、と言わんばかりに長い指で唇をなぞられてしまうとついつい従ってしまう。
本当に良いのだろうか。それこそ会うのは一週間振りくらいで、付き合い始めてからここまで会えていなかったのは久し振りなのだ。もう少し、彼との時間を堪能したい。そもそも家主である自分が寝てしまったら、彼の迷惑になるのでは。
そんな気持ちと裏腹に、瞼はもう既に睡眠への階段を上っている。うつら、うつら。瞼は次第に重くなる。
「おやすみ、
だめ押しとばかりに、唇に柔らかな感触。恐らく彼の口付けが降りてきたのだろう。優しく、心地よい。
起きた頃に、まだ彼がいてくれたら。思いっきり抱き着いて、ありがとうと言いたい。それから、その愛しい顔にたくさんキスをして、好きだよと言おう。彼は笑ってくれるだろうか、大胆だねなんてからかってくるだろうか。たっぷりとお礼をしてから、今度は自分が彼を甘やかしてあげよう。膝枕は好きだろうか、それとも肩を揉んであげようか。楽しみがいっぱいだ。でも、今は──彼の膝で甘えていよう。おやすみ、愛しいひと。

君の膝で眠りたい

15/06/11