死が差し迫ってくる感覚というのを、体験したことはあるだろうか。
感覚がなくなる、音がどんどん遠くなって、瞼も降りてくる。入眠に近い感覚らしい、と聞いたことがあった。その頃にはもう、痛みも何もかもが忘れていた、と。
そして、まずどうでもいいことから思い出すらしい。あぁ、そういえば昨日で冷蔵庫の食材は使い切ったから買い出しに行かないとな。今夜は何にしよう、肉続きだから魚がいいかな。食事のことばかり考えてしまうのは、人間の本能のひとつからだと言い訳をしたい。
ひときしりどうでもいいことが頭を支配したな、と思ったら今度は愛しい人達のことを思い出す。家族、友達、同僚、そして恋人。その頃にはもう指ひとつ動かせなくなってきて、ようやく死を実感し始める。
死んだら寂しがってくれるだろうか。死の原因に対して怒ってくれるだろうか。傷付けてしまったら嫌だなぁ、背負わせてしまったら嫌だなぁ。もっともっと、素直になればよかったなぁ。もっともっと、優しくしてあげたかったなぁ。幸せになってほしいなぁ、幸せにしたかったなぁ──あぁ、会いたいなぁ。
「──!」
バチンッと頬を叩かれて、思わず目を開けた。重かった筈の瞼が嘘のような軽さだ。遠くなっていった音の中で唯一耳に届く声は、確かに自分の名を呼んでいた。
「、・、しっかりしろ!おい!!」
眩しい世界に目を凝らしながら声の主を探すと、珍しく必死な表情の恋人がそこにいた。どうも、抱き起こされているらしい。ぐっと肩を掴まれているのに痛みがない、感触だけだ。
「、…?」
どうしたんですか?と声を出したつもりが、ひゅうひゅうと喉が震えるばかりで音にならない。喉がやられているらしい。ぱくぱく、と間抜けに口を動かすと、普段は余裕たっぷりのその顔がひどく歪んだ。
「、」
傷ついているような表情に、こちらが傷ついてしまいそうだった。大丈夫ですから、心配しないで。その頬を撫でようと手を伸ばすと、やけに重い。何か身体に欠陥があるようだ。
それでもなんとか安心させたくて、ゆっくりゆっくり伸ばすと、覆い被さっている彼にその手を取られる。ぎゅう、と握られた手はひどく暖かい。普段は冷たいのに、今日ばかりは暖かいなんて不思議だなぁ。
「、っ」
何度も名を呼ばれて、ふっと頬が弛むのを感じる。
「す、てぃーぶん、さん」
やだなぁ、何泣きそうな顔してるんですか。なんとか喉を震わせて、そう告げようとするが彼の名を呼んだ時点でもう使い物にはならなくなってしまった。ひゅうひゅう、呼吸の音がやけに近い。
、、!と何度も何度も名を呼ばれているのを頭の端で感じる。いつの間にか目を閉じていたようだ。しかし、どうやらもう瞼は開かないらしい。
大丈夫ですよ、スティーブンさん。そんなに柔じゃありませんから。そう伝えたかった唇はもう一切動かなかった。そこからは、まるで電源が落とされたように、世界からシャットダウンされた。
:::
目が覚めると、そこには白い天井があった。
起き上がろうとするが、どうにも力が入らない。視線をぐるりとさまよわすと、細い管や太い管が自分の身体を包んでいた。
恐らくここは病院なのだろう、医者や看護師が慌ただしく駆けている。大変そうだな、なんて他人事のように思った。
「──?」
不意に、名を呼ばれる。低くて甘くて余裕たっぷりの大好きな声だ。廊下へ向けていた視線を窓際に戻すと、信じられないようなものを見るような顔で愛しい恋人が立っていた。
「すてぃーぶん、さん」
掠れきった声で愛しい名を呼ぶと、彼は弾かれたように彼は病室を飛び出した。その後すぐにライブラの面々が病室に押し掛けてきたので、どうやら外で待機していたメンバーを呼びにいったらしい。同時にすっ飛んできた医者や看護師から状態の確認を受けつつ、自分にどういったことが起きたのかを改めて説明してもらう。
──買い出し中に突然襲われ、スティーブンを庇って怪我をした。そしてその怪我が思った以上に深く、三日ほど生死の境をさまよっていたという、実に単純な話だ。
結局襲ってきた相手は、その後スティーブンによって凍結され粉々に砕かれたらしい。何の目的で襲ってきたのかは、未だにわからないそうだ。
「もう二度とあんなことしちゃダメよ!」
「君の勇気は素晴らしい、しかし見計らうべきことはあるだろう」
「無謀にも程があります、貴方がする必要はどこにもなかった」
「駄目っすよー女の子が無理しちゃあ」
「ああいう時は、なんとか逃げる方法を探さないと」
「弱ぇ癖にでしゃばってんじゃねぇよターーーーーーコ!」
K・Kとクラウス、ツェッドにレオナルド、チェインに加えてザップにまで言われてしまっては返す言葉もない。まぁ確かに自分が庇わなくとも、彼ならばなんとか出来たであろう。一般人のそれと対して変わらない戦闘能力の自分がでしゃばる話ではないということの、理解は出来る。
あはは、と笑って謝罪を口にすると、また説教が一番とヒートアップする。困ったものだが、愛されている証拠かなと考えると面映い。甘んじて受け入れようじゃないか、こういう時に心配してくれる仲間がいるというのは有難い。しかし、一番怒るだろうなと踏んでいた当の本人は、怒ることも非難することもなく黙って隅の方でただ突っ立っていて、それがやけに気になった。
結局さんざっぱら説教を食らい続け、本日の面会時間は終了した。まだ怒り足りないとばかりの面々はぷりぷり起こりながら病室を後にする──スティーブンだけを残して。
誰がどういう狙いで襲ってきたのかわからないからと、暫くお目付け役をつけることになったらしい。いやいや、と反論しようとしたが全員に睨まれてしまっては何も言えない。取り敢えず入院している間は交代で誰かしらが警護に当たってくれるらしい。戦闘能力が低い故の措置に、申し訳なさが募るばかりだ。
二人きりになると、彼は部屋の隅から歩いてきて、ベッドに腰かける。細い管や太い管は目が覚めて割とすぐに外されていた、生命維持装置のようなものだったらしい。起き上がってしまえば元気な怪我人には必要がない、との判断だ。
彼は無言だった。普段ならばその甘い声を張り上げて怒るか何かしてくれるだろうに、今回の件に関してスティーブンはまだ一言も話してはくれなかった。起き抜けに名を聞いた以来、彼の声を聞いてない。
「あの、」
居たたまれなくて声を掛けると、視線が向けられる。まるで何かおいてけぼりを食らったかのような瞳が、自分を見つめていた。なんで、貴方がそんな顔をしているのか。
「その、えっと」
「──死んだかと、思った」
言い淀んでいると、彼の口がようやく開く。その声は暗く重く深い。
思わず口をつぐむと、彼の方は止まらなくなったようで、矢継ぎ早に言葉が飛んできた。
「どうして庇った」
身体が勝手に動いたんです。
「君程度、守りながら戦うくらいは出来る」
出過ぎた真似をしてすみません。
「目の前で君が血まみれになって倒れた時の、俺の気持ちがわかるか」
ごめんなさい、わからないです。
「もう二度と、あんな真似をするな」
それは、
「それは約束出来ません」
ようやく喋ったかと思ったら、この言葉だったから彼の顔は益々歪んだ。
「君、今どういう状況かわかってるのか」
怒気が孕んだ声に、びりびりと身体が震える。怒っているのだろう、そりゃあそうだ。こんな、一般人と変わりない娘に守られて、しかも大怪我までされて。プライドも何もかもズタズタだ。挙げ句の果てには反省の色が見えない。怒って然るべきだ。それでも、こちらだって譲れない。
「目の前の大好きな人も守れないで、ただ突っ立ってるなんて冗談じゃない」
自分には何も出来ない。戦いにおいて役に立てるとすれば、盾になることしかないのだ。自分だって死ぬのは怖い、死にたくない。でも、目の前の恋人がもし死ぬかもしれなかったら。その時、自分の安全とか彼の実力とか、そんなものは全部吹っ飛ぶ。身体が勝手に動いて、全身全霊で守ろうとする。そこに、理性なんてものはない、ただの本能だ。
「じゃあ、目の前で恋人に守られて──目の前で恋人が死にそうになってる様を、まざまざと見せつけられた俺の気持ちはどうなる?」
「…それは、」
それは、どうしようもない──とは、言えなかった。
ふと、自分に置き換えて考えてしまったのだ。目の前で、彼が自分を守って、傷付いて、血塗れになって、死にそうになって、それでも笑って、自分を逃がそうとする、そんな姿が容易に想像ついて。
そんなのは、嫌だ。絶対にしないで欲しい、そんな風に思ってしまったから、もう何も言えなくなってしまった。
「………なんで君が泣くかな」
ぼたぼた、シーツに涙が落ちていく。包帯だらけの腕で、ごしごしと拭うけれど一度堰切って出たものは中々止まらない。ずるい女だ、と自分で思う。泣いてしまったら、彼はもう怒れないだろう。
「泣きたいのは、こっちの方だよ」
そんなことをいいながら、泣かないくせに。そんな可愛くない反論も出来なかった。スティーブンは泣いてはいなかったけれど、確かに泣きそうな顔をしていた。そんな顔は、出会ってから今まで、見たことがなかった。益々涙腺が緩んで、ぶわっと涙が溢れて止まらない。そんな顔をさせたくなんて、なかったのに。
顔の近くまで伸びてきた彼の手が、動きを止めたのは躊躇いなのだろうか。でもそれは一瞬のことで、すぐに指先が頬を伝う涙を拭って、目尻に溜まった涙を掬う──その手の優しさと来たら。一向に止まる気配のないそれに、彼は苦笑を滲ませた。
「な、さい」
「ん…?」
「ごめん、なさい」
心配をかけて、目の前で倒れて、貴方を傷付けて。
「──うん」
彼は笑って頷いた。今にも泣き出しそうな色はとんと何処かへ消えてしまって、心から安堵したようにはにかんでいる。どうして、こんなに優しいのだろう。
「約束は、できない、けど」
「…」
「けが、しない、ようっに」
「…うん」
「えいい、どりょく、しま、す」
「…君、本当に頑固だなぁ」
約束は、出来ない。だって今回も勝手に身体が動いてしまったのだ。総合的に考えて、動かずにいた方が彼の動きの妨げにもならず、怪我をしなくても済んだかもしれない。それでも、なりふり構わず庇ってしまったのだからもう救いようがない。
しかし、今想像してしまったから。もし自分が彼に庇われて、彼が傷付いてしまう姿を見たら。どんなに苦しいだろう、どんなに辛いだろう。身体の痛みはなくとも、きっとすごく痛い。それを、理解してしまったら、もう何も考えずに突っ込めるかどうかはわからない。
「はは、ぶっさいく」
「…ひどい」
ぶに、と頬を引っ張ったかと思ったら、こんなことを言い出すから可愛いげがない。ええ、確かにぶさいくでしょうとも。涙でぼろぼろ、鼻だって多分赤い。額や首にはぐるぐると包帯を巻かれているし、その他にも湿布やガーゼのオンパレードだ。
それでも、そんな自分を見て笑う彼の瞳は、どうしようもないくらい優しくて、甘くて。いとおしいものを見ているように、普段では考えられないくらい柔らかい顔で笑うから。涙はいつの間にか引っ込んでしまった。
「君が泣くから、なんかもう、どうでも良くなってきちゃったよ」
「なにが」
「君を守れなかった自分を、責めてたのが馬鹿みたいだ」
「それはもうどうしようもない、馬鹿ですね」
勝手に傷付いたのに、何を馬鹿な。すん、と鼻を啜りながらはっきりいうと、彼は一層笑みを深くした。
「うん、俺は案外馬鹿なんだね」
「今更気付いたんですか?」
「失敬だな」
「だって馬鹿じゃないですか」
「君ほどじゃあないよ」
「はい、私は馬鹿です」
そりゃもう、馬鹿だ。
うん、と頷いた彼がするりと頬を撫でてくる。その心地よさに思わず目を瞑ると、ふわり柔らかい口付けが降りてきた。
「馬鹿な君に、ひとつだけお願いがある」
「はい」
「死ぬ時は、俺に殺されてくれ」
「──はい」
躊躇いも、何もなかった。
あっさり頷いたのが意外だったのか、一瞬面食らった彼は次にはけらけら笑って、
「やっぱり君は、大馬鹿者だよ」
まるで愛の言葉のように、優しい罵倒が告げられる。彼を守って死ぬことが、彼自身を深く深く傷付けてしまうというのなら。だったら、貴方に殺されたい。最期の最期に見る顔は、貴方がいい。
そんなことを考えながら、降りてくる優しい口付けに瞼を下ろした。
どうせ死ぬなら、
15/06/15