「今から海に行かないか?」
「へ?」
そんな突拍子もない誘いから、今夜のデートは始まった。
今夜、と言ってもまだ夕暮れ時、ネオンがようやく灯り始めたくらいの明るい空だ。仕事終わりに待ち合わせ場所に急ぐと、開口一番、挨拶もそこそこに恋人がこんなことを言い出すから驚きで。そりゃあ間抜けな声をあげることにもなるだろう、ぱちぱちと瞬きを何回か繰り返すとスティーブンはくすりと笑った。
「海、ここからそう遠くないし、どう?」
「どう、と言われましても…」
海に行く準備など全くしていない、そもそも今日はディナーの誘いだったので、それこそ必要最低限なものしか用意していない。あぁ、でも今から夜だし泳ぐ訳でもないかもしれない。そう思いながら唇を開くと、彼はにっこり笑って頷いた。
「今から行くってことは…」
「うん、眺めるだけ」
やっぱり。この時間帯から泳ぎ出したらそれこそ遭難しかねない、自殺行為甚だしいのだろう。納得とばかりに頷いたはいいが、しかし、海を眺めるだけというのは、はたして楽しいのだろうか。我々二人は中々どうして忙しい、自分はまぁ時期が外れればそこそこ落ち着くが、彼に至っては年中無休の忙しさだ。それでもこうやって時間を作ってくれるのはひどく嬉しくて、くすぐったい気持ちになるのだが。そんな彼だ、なるべく時間は有効活用して欲しい、でも彼が望むならそれに従うのが一番の有効活用かもしれない。
ちらりと視線を彼に戻すと、にこりと微笑んだまま顔の横でちゃりっと車のキーを鳴らした。なるほど、移動手段は確保してある、と。
これは、おとなしくその提案に従うという選択肢以外ないのだろう。小さく頷いて了承を示すと、彼は一層楽しげに口許を弛ませて恭しく車へとエスコートしてくれた。一体何を考えているのやら、訳はちっともわからなかったが、珍しく嬉々としている彼を見れたからもうなんでもいいか。我ながら本当に、惚れた相手に弱い。
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まだ夕陽は沈みきっていない茜空に、ぽつぽつとネオンが見え隠れしている景色は、中々に幻想的だった。街中ですらそうなのだから、海辺は恐らくもっとそれが増すのだろう。
彼の言葉通り、存外近くにあったビーチは時間帯もあってか人はまばらだ。まだ遊び足りない子供や、しっとりした雰囲気に魅せられたカップルなど、エトセトラ。その誰もがどことなくこの場から離れたたがらないでいる理由は、今先程来たばかりの自分にもよくわかる。
「…きれい」
海は、ひどく綺麗だった。まるで魅いられたようにして立ち尽くす他にない。夕陽がもうすぐ沈むのだろう、地平線の位置にあるそれは、まるで今にも海に沈みそうだった。空の青と海の青、そして夕陽の赤が、雲と霧に乱反射して様々な色合いが見える。綺麗だ、こんな綺麗な景色をまさかヘルサレムズ・ロットで見れるなんて思ってもみなかった。
加えて鼻腔を擽る海の匂いに、肌に吹き付ける潮風が心地よい。誰だ、海を眺めるだけなんて楽しいだろうかなんて言ってたのは。こんなにも美しくて心地よい景色の中にいられるなんて、この上ない楽しさだろう。
いつの間に、こんな風景を忘れていたのだろう。そういえば、最後に海へ来たのはそれこそもう十年以上の時が経っていたなぁ、なんてぼんやり思い出す。全く歳とは取りたくないものだ、こんな光景を忘れるなんて。
「気に入った?」
不意に声を掛けられて振り返る。夕陽に照らされたスティーブンの顔はほんのり赤い。車に乗り込むと同時にジャケットを脱ぎ捨てた彼はシャツ姿で佇んでいた。その姿が嫌に涼しげで、どこか色っぽい。妙に様になっているのは、彼が伊達男だからか、自分がどうしようもなく彼に焦がれているからか。
「こないだ仕事でここに来てさ。忘れてたよ、海がこんなに綺麗だってこと」
苦笑を滲ませて頬をかきながら呟く彼は、自分よりも年上で、そして何より忙しい。生き急いでいると言っても、恐らく過言ではないのだろう。
いつ死ぬともわからないこの街で、世界の均衡を保つ彼は死にたがりとは思わないが、生きたがりとも思えない。ただひたすらに、駆け抜けている印象だ。生を謳歌している、とは言えない。きっと、そんなに美しいものではないのだろう。
「──だから、君と見たくなって」
苦笑の滲んだ顔が、不意に真剣な視線を飛ばしてくる。あぁもう、これだから。
自分と彼の選んだ道は、全く違う。神様の気まぐれみたいな偶然によって出会って、神様の起こした冗談みたいな奇跡が重なってこうして共に過ごせている。きっと、いつか、自分は彼に置いていかれてしまうのだろう、そんな不安にくるまった予感はいつだって胸の奥底にあって。それでもこの人を、手放してたまるものかと強く思っていられるのは。こうして不意に立ち止まって、綺麗だなぁと思ったものを分け与えてくれるから。遥か後ろをのろのろ歩いている自分を、時折立ち止まって待っていてくれるから。そんな時は決まって、ぎゅうっと胸が締め付けられて、彼を強く抱き締めたくて仕方なくなるのだ。
「スティーブン、さん」
「うん?」
「…海、綺麗ですね」
「うん」
「っまた、こうやって見に来ませんか」
「もう次のことかい?気が早いな」
くつくつと喉を鳴らして笑う彼は、ざりっと砂浜を踏み締めながら一歩側に来る。手の届く範囲の距離になったのだろう、相変わらず手足が長くて羨ましいことだ。すう、と伸びてきた手が、潮風によって乱れている髪を耳にかけて頬を撫でる。擽ったさに目を細めると、彼は笑った。はにかむような、眩しそうな、いとおしそうな、擽ったそうな。なんとも形容し難い笑顔だ、微笑みと言っても良いかもしれない。
美しく弧を描いた薄い唇が開かれて、
「君となら、何度でも」
優しくて、甘い声が響く。波音に消えることなく、確かに耳に届く声と言葉は、多分本音だ。何度でも、自分を側に置く未来を選んでくれているのだろう。そんな言葉に、目の奥が熱くなるのは仕方ないではない。思わず、小さな言葉が漏れる。紛れもない本音だ、変えようのない真実だ。
「………きれい、だ」
歪む視界の中で、ただ笑っている彼は、海よりもよっぽど綺麗で、心から欲しいと思った。震える声は、押し寄せてくる波音にかき消されてしまっていると良い。
ぐるりと振り返って、彼に背を向ける。パンプスを脱ぎ捨てたのは、この後の行為に新しい靴を駄目にするのは憚れたからだろうか。幸運にも今日はストッキングではなかったので、呆気なく素足が砂浜を踏み締める。そのまま勢いに身を任せて、浅瀬へ走り抜けた。
日はとっくに沈んでいて、暮れ泥んでいた海はもう暗い。足を濡らす塩水はひんやりしていて、火照っていた身体には丁度良い。スカートを捲し上げて、ざぶざぶと海を足で掻き分けて、ずんずん進んでいく。膝まで浸かったところで、これまた勢いよく振り返ると、ちゃぷんと海が揺れて波紋を作る。何故だか、後押ししてくれたように感じた。
息を大きく吸って、誰かに背中を押されたようにして唇を開く。
「スティーブンさん!」
大きな声だ、普段滅多に出さない声量だ。案の定彼は驚いたのだろう、細められていた蘇芳の瞳を丸くして、呆然とこちらを見ていた。そりゃあそうだ、いきなり靴を脱いだと思ったら海に走り出して、その上こんなに大きな声をあげて。ティーンの頃だってこんなことしたことない、声を荒げるなんて喧嘩する時くらいだ。でも今は、そんな気分だった。
「私、スティーブンさんが好きです!」
恥ずかしいことを言っている自覚は、ある。
「いつだって、どんなことがあったって、貴方が好きなんです!」
こんな、良い歳した女が言うことではない。
「スティーブンさんがどんどん先へ行ってたって、例えお互いに選んだ道が違っていたって、」
気まぐれに平行線が交わっただけで、その先離れることになったって。
「そんなの知らない。貴方の隣にいるのは、私が良い!」
言い切ると同時に、ざぱぁんなんて音が響いて、勢いよく波が襲ってきた。浅瀬にいたのが幸運だったのだろう、波はすぐに引いていき、残ったのはずぶ濡れになった自分だけ。ぽたぽたと、髪や服から雫が滴り落ちていた。
驚きに目を丸くするのは、今度は自分の番で。一間あったかと思いきや、波打ち際と砂浜でほぼ同時に噴き出した。
「な、なんてタイミング…!」
一度堰切ってしまったら後はもうなし崩しだ。ケラケラと笑い声を上げながら肩を震わせて、腹の奥底からあがってくるものをそのまま出すしかない。目元は弛み、口元は開きっぱなし。そうこうしている間に、またざぱぁんと波が襲ってくる。ひんやりとした塩水は気持ちが良い、火照った身体を冷ましてくれているようだ。
「かっこつかないなぁ」
「はい」
くすくすと、漏れでた笑いを堪えるようにしてスティーブンは言った。迷いなく頷くとまた小さく笑われたが、実際その通りなので怒るどころかこちらも笑った。
ぽたぽたと流れてくる雫が鬱陶しくて、前髪をかきあげる。髪型なんて最早気にしている場合じゃないし、どうせ化粧も崩れている。今更だろう。視界が開けて暗い海が月の光と霧で乱反射しているのが目に入る、また一層幻想的だなぁ、そんな風に思っていた時。
ざばっと水音がして、波が砂浜から押し寄せてきた。慌てて顔をあげると、今まで浜辺で腹を抱えていたスティーブンがざばざばと波を掻き分けてこちらに向かっている。その光景に、先程なんて比にならないくらい目を見開いた。この人、何てことをしてるんだ。
「す、スティーブンさん!?」
「やっぱりこの時期でも、夜だと冷たいな」
「まぁ気持ちいいくらいですよ…ってそうじゃなくて、なにして」
るんですか、と続く筈の声は、彼の胸元によってどこかへ消え去ってしまった。ふわりと良い香りが鼻腔を擽る、嗅ぎ慣れた匂いだ、彼の匂いだ。
抱き締められている、と頭が理解をした時、波が小さく揺れた。背に回った腕はいつだって優しい、顔を覆う胸元はいつだって暖かい。耳に響く心音は、いつだって、自分の心を落ち着けてくれる。
ぽつり、落ちた呟きは、波にかき消えることはなかった。
「君があんまりかっこいいから、俺の立つ瀬がないよ」
なんの話だ。
「こういう時、そういうことをするのは男の仕事だと思うんだけど。君はいつだって想像の上を行くなぁ」
良い意味で裏切れているのであれば、何より。
「──俺も、いつだって、どんなことがあっても、君が好きだよ」
ぶわっと、また視界が歪んだ。目の奥から込み上げてくるものは、悲しみじゃない、ましてや苦しみでもない。この上ない、幸福だ。
ぎゅっと、抱き返す。強く強く、回した手で彼のシャツを握り締めて身を寄せる。自分の身体が憎い、境なんてなくなってしまえば良いのに。いっそこの身体が溶けて、ひとつになれたらいいのに。そうしたら、いつだってどこだって、置いてけぼりを食らうことにはならないのに。
「なに、わざわざ濡れに来てるんですか」
「を抱き締めたくて」
耳に届く言葉に心臓が跳ねるのは、もう仕方ないことだろう。
「波に拐われるなんて、まっぴらごめんだからなぁ。こうしてちゃんと捕まえておかないと」
それは、
「それは、こっちの台詞なんですけど」
ぐっと顔をあげると、目を丸くしてこちらを見下ろしている彼の表情が目に入る。その少し間の抜けた愛らしい表情に、ぐっと心を揺さぶられていると、彼はふわりと目を細めて、嬉しそうに、いとおしそうに笑うから。
「──じゃあ、お互いしっかり捕まえておこうか」
そうして、吸い寄せられるように唇を重ねた。海水のせいで少ししょっぱいキスの味は、深く焼き付いて、きっと自分は今日のことを忘れないのだろう。腰を抱かれ、濡れた髪を撫でられ、優しく口付けられ、耳に届くのは彼の吐息と波音で。濡れた服でどうやって帰ろう、彼の車を汚すのは忍びないなぁなんてぼんやり考えつつも、ただ彼の舌に溺れていた──用意周到な彼が海辺のホテルを予約済みだったなんてことは、この時の自分は思いもしてせずに。
波音よりも鮮明な
15/07/17