やってしまった。いや、とうとうやってしまった。
まだ陽も昇っていない早朝、柔らかく肌触りの良いシーツに包まれながら、恋人は隣で健やかな寝息を立てている。無防備な姿に喜びを感じるようになったのは、一体いつからだっただろう。
そんな彼を起こさないよう、細心の注意を払ってベッドを抜け出したのには理由があった。鞄に押し込んだあるものを取り出すため、だ。我ながらドラマの見すぎだと思う。いや、でもそういう意味ではないのだから、多少は許されても良い筈だ。
取り出したもの、鈍く光るそれは、装飾の少ないシンプルなもので。起きないで、と心の底から願いながら、彼の手を取った。
存外武骨な指先は、いつだって自分に優しく触れる。どんな時も、どんな場所でも。この手が、この身体が日々の平穏を守っているのかと考えると、あんまりにもいとおしくなってしまうから、ちゅ、と小さな音を立てて唇を落とした。やってしまってから、もしかして起きただろかと不安になったが、どうやら杞憂だったらしい。余程疲れているのだろう、昨日だって帰ってきた姿はよれよれのぼろぼろだったのだから。日夜世界の均衡を保つために奮闘している彼は、いつだって忙しいのだ。それなのに限り少ない自由な時間を自分に与えてくれる、与えたいのだと言ってくれる、こんなにも嬉しいことはきっとこの世界には存在しないだろう。
伸びた指にそっと触れて、とあるものをするりと嵌めた。サイズは知っていた、彼が疲れ果てている時に調べたから抜かりはない。まるで、彼に嵌められる為に生まれたといっても過言ではないくらい、綺麗に収まったそれに、目を細めた理由はひとつしかない。
「──サイズ、いつの間に調べてたの?」
指先にばかり集中していたのが悪かったのだろう、予想だにしない低い声が落ちてきたから思わず肩をびくつかせた。
ばっと顔をあげると、眠たげに目を細めたままぼんやりとした様子でこちらをみているスティーブンがいた。別に怒られるようなことをした訳でもないのだが、何故だか妙に罪悪感が募り、後退りをひとつ。しかし、伸ばされたままの指先がすぐさまこちらを捉えて、ぐいと引っ張られるままに彼の胸元へと飛び込む形になった。
「なんで逃げるのかな」
寝起き特有の掠れた低い声が、頭の上に響く。どうやら抱き留められたらしい、腰にはがっちりと腕が回っていて逃げることが出来なかった。いや、逃げるつもりはなかったのだけれども。
「いつ調べたの?サイズ」
まるで、昨日の夕飯はなんだったっけ、といわんばかりの自然な質問に、ついつい唇は答えを紡ぎだしてしまう。
「前に、千兄弟でしたっけ、うちの職場に穴開けた人達を一掃したっていう日の夜ですね」
「あー…あれはしんどかったなぁ、帰ってからはそのままベッドに入った記憶しかない」
「お陰さまで着替えさせるついでに簡単に測れました」
「うーん、いくら疲れていたとはいえ、そんなことされて気付かないとは。こんなの"会社"の奴らに知られたら大笑いされるだろうなぁ、俺はつくづくには敵わないよ」
けらけらと笑う様子を見るに、追求はどうやら逃れられそうだ。ほっと胸を撫で下ろすと、先程まで手中にあった指先が乱れた髪を整えてくれる。その心地よさと来たら。中々どうして、言葉にするのは難しい。
「で、なんで急に指輪?」
そして、油断しきったところにこの切り口。なるほど、やはり彼は有能で抜け目のない男なのだろう。きっと"会社"でもそれなりに恐れられているに違いない。
至近距離での突然の問い掛け、そして後ろに引くどころか身体を起こすことすら出来ない。まさに八方塞がり、袋の鼠だってもう少し逃げ惑える。
おまけにこれ見よがしに、先程指輪を嵌めた掌を顔の横で振られてしまえば、もう観念する他に道はない。今更、わぁその指輪どうしたんですか、なんて誤魔化しは効かない。いや、別に誤魔化したい訳ではない。ただほんの少し、照れ臭かっただけなのだ。
「いや、あのですね」
「うん」
「他意はないんですよ、他意は。そんなに高いものでもないから、ちょっと申し訳ないなーって思う程度のもので」
「うん」
「…、なんといいますか」
恥ずかしい。真実を口にするというのは、こんなにも躊躇するものだったろうか。楽しげにこちらを見ている彼は、きっとそれがどういう意味を持つものなのかわかっているだろうに。わかっているからこそ、言わせたいのだ。あぁもう、なんて残酷な人だ。
「──虫除け、です」
放ってしまえば、恥じらいや情けなさなんていうものは霧のように散っていく。そう、これは虫除け、女性を翻弄する彼を縛り付ける小さな楔だ。
「仕事のために色んな人をたぶらかしてるスティーブンさんには邪魔なものだと思います」
「そうだね、そういう時、きっと外すだろうさ」
「でも、その時は私のこと、思い出しますよね」
そう、外そうが外さなかろうが、指輪というものは人を縛り付けるものなのだ。嵌めたら最後、抜けることがないなんていう呪いは掛かっていないが、それを外す時には必ず送り主を思い出す。
「私には──それで充分です」
ハニートラップは気に入らないし、許さない。それでも彼はやめることがない、世界を守るための手段のひとつならば躊躇うことなくそれを行う。だったら、それを逆手に取ってやろうと思った。
愛されている自覚はあった、愛している自覚も。だからプレゼントすれば、きっと彼が身に付けてくれるであろうこともわかっていた。狡い女だ、小賢しい手段だ。それでも形振りかまってなどいられない。だってこの人は、今自分を抱いているこの腕は、自分だけのものなのだから。他の誰にだって譲ってなどやるものか。例え身体は許しても、心までは許させやしない。
牽制なんて甘いものではない、これは楔だ。貴方は今から、自分を思い出しながら誰とも知れない女を惑わすのだと、その度に痛感させるためのみっともない楔なのだ。
「これはまた、随分と」
重い、だろうか。という不安が急に募ってくるのは、彼を目の前にしているからだろう。逃げ出したくとも敵わない、そんな中、ダイレクトな反応を待つというのはとてもじゃないが耐えきれそうになかった。
「…ごめんなさい」
ついた言葉は謝罪。何についての謝罪なのか、自分でもよくわからない。浅ましい考えか、縛ることについての断罪を乞うているのか。答えはきっと神様しか知らない。
「どうして謝るかなぁ」
笑みを浮かべたままの彼は、頬を撫でて、それからそっと口付けを落とす。触れるだけのそれは、どこか神聖で、心地よくて。
瞼を伏せる。それが合図になったかのように、顔中に唇が落ちてきた。
ようやくそれが止んで、ちらりと彼を見上げると、それはそれは幸せそうに、嬉しそうにはにかんだ彼の顔が目に入る。
「嬉しい」
その言葉に、堪らなくなって、強く強く抱き締めた。くすくすと笑いながら、苦しいよ、という彼はそれは穏やかだった。
嬉しいと言ってくれた、それはこのちんけな楔を喜んで受け入れるという意味で。あぁ、好きだ、と心底思う。
「俺も用意しとけばよかったな、虫除け」
「必要ないですよ」
「いいや、ある。今度一緒に選びに行こう」
言い切ると、胸に添えていた左手を取られる。かと思えば、ぱくりと薬指を食べられて。チリッと痛みが走ると同時にべろりと指の腹を舐められた。
解放された薬指の付け根には、綺麗な歯形が付いている。彼を見やると、悪戯が成功した子供のような笑顔をしていた。
「買うまで、これで我慢して」
こいつは参った。この手があったとは、とひっくり返りそうになる。到底考えもしなかった方法に、思わず笑うと彼も笑みを深める。
永遠を誓った訳でもない、ペアリングでもない。単なるエゴの塊だ。でもお互いこんなにも嬉しいことはないと心底思っている、縛り付け合うことの喜びを初めて知った。楔はいつしか、神に誓う証へと変わるだろう。それまでは、この欲の詰まったもので、お互いを縛り付けるとしよう。
楔は苦く、甘い
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