吐く息が白い。空も白い。そして、地面も白い。異界と人界が隣り合わせの霧で覆われているこの街、ヘルサレムズ・ロットは現在真っ白だった。紐育時代は降ることがあったから異常気象という訳でもないのだが、何分珍しいからついつい空を見上げてしまった。雪は白く、果てがないようでいて幻想的だ。おまけに寒さに弱いのか人通りがまるでないから、また一層それに拍車を掛けている。いつもはおもちゃ箱をひっくり返したようなこの街も、今日ばかりは粛々と静まり返っている。
「、」
ぼんやりと雪の降りしきる空を見ていたせいだろう、寒そうに両手をポケットに突っ込んで身を竦めている恋人の存在に気が付かなかった。振り返ると、マフラーに顔を埋めている伊達男が寒さに身体を震わせながら立っていた。その姿さえもが愛しい、抱き締めたくなるのを我慢しながら唇を開いた。
「タクシー、見つからないですねぇ」
「皆出払っちゃったみたいだな」
急に雪なんて降るから。そうごちる彼は少しだけ不貞腐れているようで、ひどく可愛らしかった。寒さのせいか、頬も鼻も真っ赤なのが、また可愛さに拍車をかけているようで。酒で火照った身体がどくんと脈打つ。いつまでも、この人に恋をし続けているようだ。全く救えない、救われようとも思わないが。
今日は二人で、のんびりと食事に来ていた。二人とも酒を飲む為、車で来なかったというのは幸か不幸か。突然爆発的に降りだした雪は食事をしている間にどっさりと積もって、いつもはすぐに捕まる筈のタクシーもめっきり姿を見せない。きっと今頃大通りでてんやわんやしているのだろう。今日お邪魔した店は家からそう遠くないことが、唯一の救いと言えよう。
「歩いて帰りますか」
「それしかなさそうだ」
「お酒飲んでおいてよかったですねぇ」
「全くだ。じゃ、行こうか」
す、と差し出された手に指先を絡めると、いつも驚くくらい冷たい掌がほんのりと暖かく感じる。店を出てからそんなに経っていない筈だが、どうやらいつの間にか身体が冷えきっていたらしい。暖かいその手をぎゅうぎゅう握って遊んでいると、不意にその手はするりと逃げる。
どうしたのだろうか、冷たかったのだろうか。そう思った次の瞬間、ふわりと彼の香りが降り注いだ。ぱちり、瞬きをひとつ。訳もわからずぱっと顔を上げると、彼は眉尻を上げたままぐるぐるとこちらの首にマフラーを巻いていた。
あたたかい、そして何より安心する香りが充満している。
「あの、これ」
「こうしてれば、少しはマシだろ?」
「でもスティーブンさんが、」
「俺は平気、寒いのには慣れてるから」
慣れてるからとかそういう問題ではない気がする。そもそも慣れてるなんて、どういうことなのか。
そう言おうとする前に、既にマフラーがぐるぐると巻かれてしまっていて、おまけにきゅっと軽く結ばれる始末だ。今更これを解くのもどうかと思うし、何より彼が満足げに笑っているから余計に憚れる。
一瞬のためらい、でもすぐに根をあげた。好意を無下にするのはなんだか心が痛むし、こういうことをされて嬉しくない筈がないのだ。不釣り合いな程に高級なマフラーは暖かく、何より心地よさを与えてくれる。顔を埋めると彼の匂いがして、また一層顔が弛んでしまう。
「…ありがとうございます」
「はい、どういたしまして」
ぺこりと頭を下げると、彼も同様に頭を下げた。端から見たら、凸凹な二人が何をしているのかと思うだろう。それが妙に可笑しくて、小さく吹き出すと頭の上からも同じような音が響く。ぱっと顔を上げると丁度良い位置にいた彼と目があって、益々可笑しくなってくるから込み上げてくるものが止まらない。しんしんと雪が降る中、二人の笑い声だけが確かにそこにあった。
「寒いな」
「寒いですねぇ」
ひときしり笑い合った後、手を繋いで歩き出した。さくさく、と踏みしめる音が新鮮でなんだか妙に楽しくなってきた。スキップでもしそうなくらいの足運びに、彼は引くこともなくついてくる。寧ろ彼の方が楽しそうだった。
「でもさ、なんだか妙に居心地が良いね」
「というか、楽しくなってきちゃいましたね」
「うん、がいるからなぁ」
頷きながら、彼ははにかんだ。その破壊力と来たら、もうノックダウンである。ゴングが鳴り響いている、卑怯だ、いや見事なK.O.だ。そんな顔をされたら、こちらまで嬉しくなってしまう、舞い上がってしまう。沸き上がる気持ちを、ぎゅっと手を握り返すことでなんとか留める。だけれど彼は、そんなこと気にもしないでにこにこと笑みを浮かべたまま続けるのだ。
「雪なんて前はどうでもよかったんだ。雨だろうが晴れだろうが、まぁ多少移動に不便が出るかなってくらいで」
確かに、天気なんて日々生きていく上でそこまで気にすることはないだろう。農家を営んでいるなら別として。
「でも、」
ぴたり、と止まる彼に合わせて足を止める。見上げると、それはそれは穏やかな顔をした彼が幸せを噛み締めるようにしてこちらを見下ろしていた。どきどき、胸が高鳴っていくのを感じる。
「最近は毎日変わる天気とか、色んなことが楽しい。それは全部──が側に居てくれるから」
ふわり、微笑んだ彼はそれはそれはかっこよくて。どくん、と心臓が跳ねた。
そんなのは、こちらの台詞だ。代わり映えのしない日々に彩りを与えてくれたのは、他の誰でもない彼で。今までどうして見逃してたのだろうと思うくらいに世界が新鮮で、何もかもが輝いて見えて、それら全ては──スティーブンがこうして隣に居てくれるからなのだ。
美味しいね、って一緒に笑ったり。
疲れたね、って一緒にだれてみたり。
暑いね、って一緒にうだっていたり。
寒いね、って一緒に身を竦めていたり。
そんな些細なことが、世界に色づきを与える。今までモノクロだった世界が、まるで薔薇色のような世界へと変わった。その原因は、彼以外には有り得ない。
「こんな穏やかな気持ち、知らなかったよ」
それは、与えられたということだろうか。いつも何か貰ってばかりのこちらから、誰よりも愛しい貴方へ、あげられたということだろうか。そうだったら、どんなに嬉しいだろう。
「私も、知らなかったです」
頬が熱くなるのを確かに感じながら、それでも唇を開いたのは、同じ気持ちであることを伝えたかったから。
「じゃあ知れた俺達は、」
「幸せ、ですね」
当たり前の日々が、まるで初めましてのように切り替わった。この雪のように真っ白なキャンパスが、彼の色に染まっていく。共に過ごす度にどんどんと増えていくような感覚──これを幸せと呼ばずして、何が幸せなのか。
呟いた言葉は、静寂のなかにぽつんと落ちて。でもその言葉をなくすことなく拾ってくれる彼は、一層嬉しそうに笑って、
「うん、幸せだ」
こんなにも嬉しい言葉を返してくれる。
ぎゅっと胸が締め付けられる程に嬉しくて、幸せで。重ね合わせた掌をぎゅうぎゅうと握り返す他にない。にやける顔を引き締めようかと思ったが、やっぱりそのままにして思いきり笑った。それを見て、彼がまた笑みを深めるから、たまらなくなる。
雪はどんどん降り積もっていく。きっと明日は会社が休みになることだろう、彼も休みになるだろうか。もしそうなら二人で一日中のんびり過ごそう、雪遊びなんてする歳じゃないけど、雪だるまぐらいなら作ってもいいかもしれない。
これからも二人できっと色んな景色を見る。他の何物にも代えがたい、大切なものになる未来が何より嬉しくて幸せだ。
色づいたキャンパス
16/1/19