はじまりはなんだっただろうか。
思い出せない、靄がかったように思考が停止している。その割に身体は迷いなく動いていた。バタバタと玄関に入ってしまえば、そこはもう二人の城だから。
口付けは止むことがない。額、頬、鼻、唇、首筋。落ちてくる唇は柔らかくて、胸がぎゅっとなる。されるがままかと思いきや、こちらだって負けてはいられない。掻き抱かれている中、するりと腕をネクタイに忍ばせて、貞淑に襟元を守っているそれを崩す。結ぶのも慣れていたが、彼とこういう間柄になってからは外すのにも慣れた。それくらい、こういったことをしてきたとも言える。妙にくすぐったくて、嬉しくて。はしたない行為かもしれないが、こうして外すと彼は一層色っぽく微笑むのだ。ほら、見てごらん。
「…っは、」
口付けの合間に、にぃと歪められた口許はそれはそれはいやらしくて。今度はこちらから口付ける。軽いものから一層深く、繋がるように。それを待っていたのだろう、腰を折っている彼の腕が強く強く抱き締めてくるから、こちらも負けじと強く抱き締める。ジャケットの合間を縫って、シャツに覆われた身体に。
口付けている中、彼は煩わしそうにジャケットを脱いだ。シャツ一枚の身体は少しばかり熱くなっていて、妙な気分になってきた。いや、妙な気分と言えば、最初からそんな気分だったのだ。
「ん、む、スティーブン、さ」
「…なに?」
掠れた甘い声が、耳に熱い吐息を吹き掛けながらそう囁いた。ぞくぞく、と腰の辺りがざわつくけれど、なんとか平静を装う。こんなところでおっぱじめる訳にはいかない、いや前にしてしまっているからこそ強くそう思う。そして察しのよすぎる恋人は、こちらが名言する前にあっさりと答えを口にする
「ベッド、行く?」
甘い甘い囁きは、どこまでも甘く、それさえもひとつの武器にしてしまう。吐息ひとつで、この人はきっと他人を落とせるのだろう。何に、と言葉にするのは野暮というものだ。こんなにも腰の辺りを、ひいては胸をざわつかける声なんて、彼以外他に知らない。
小さく頷くと、心得たとばかりにひょいと持ち上げられる。所謂お姫様抱っことでも言うものだろう。簡単に横抱きされるのは、体格差が余りあるからかもしれない。子供に見られることが多々ある自分としては、この時に重たくないか心配することがないということだけが救いである。
視点が彼と同じくらいの高さになってからは、早かった。他の何かに気を取られることもなく、彼は寝室へと急ぐ。器用にも片足一本で扉を開ける様は見ていて惚れ惚れするくらいだ。
そうして、薄暗い寝室に辿り着くと、それこそどこぞのお姫様かと思うくらいに優しくそっと下ろされる。勿論床でも椅子でもない、キングサイズの、自分の身体には不釣り合いなほど広いベッドの上にだ。相変わらずのふかふかな座り心地に気を取られていると、影が落ちてきてまた口付けが再開される。
長い舌が滑り込んできて、負けじとその舌に絡み付いた。満足そうに微笑む彼は、口の中を蹂躙するように全てを舐め尽くす。上顎から舌の裏まで、手の届くところは全て彼によって暴かれる。経験が足りないこちらに出来ることなんてたかが知れていて、精々負けん気のあるままについていくばかりなのだが、それすらもやがて消え失せて。吐息を荒く、されるがままだ。
そうなると彼は、待ってましたとばかりに服を脱がせに掛かる。ブラウスのボタンをひとつひとつ、まるでラッピングをほどくように丁寧にゆっくりと。脱がされているだけだというのに、妙に焦らされている気分になっていて、ぐいと彼の唇から逃れると、糸を引いた唾液を舌でちぎって、こてんと首を傾げる。その妖艶さと、あどけなさの入り乱れた仕草に、どくんと胸が高鳴った。
それからはもう早かった。倒されがちな身体を起こして、ぐいと彼の身体を押し返す。予測してなかったのかどうなのか、彼はあっさりと倒れ伏すから、絶好の機会とばかりに馬乗りになってやる。はしたない、とかそういった清純な気持ちはどこかへ霧散していて。本能とでもいうのだろうか、ただ彼を求めたくて仕方がなかった。それは彼も同じのようで、荒くなった呼吸のまま、笑みを浮かべて、そっと頬を撫でてくる。
ぷちん、ぷちん、と矢継ぎ早にボタンを外して、鍛え抜かれた身体にそっと触れた。首筋から心臓まで刻まれた刺青を指先でなぞってから、唇を寄せる。そんな単純で稚拙な行為も、彼にとっては堪らないスパイスなのだろう。背に回された指先が、悪戯にも下着のホックを外していた。ブラウスと肌着を隔てているというのに、なんと器用なことだろう。
驚いて思わず手を止めると、熱のこもった瞳がすぅと細められて、
「──上だけ?」
なんて、色っぽく囁いてくるから。ぞくぞく、と腰の辺りがざわめいて、胸がどくんどくんとうるさいくらいに鳴り始める。なんたる色気だ、あまりの誘いにくらくらしそうになるのをなんとか堪え、目一杯の色気を総動員して微笑んでやる。指先は、刺青をなぞって、下へ。行き着いたベルトのバックルは、カチャ、と鳴る。
「こっちも、可愛がって欲しいですか?」
ここまで来ると最早、勝負事のようだが、めろめろになってばかりもいられないというのが本音で。
「あぁ、宜しく頼むよ」
だからいつだって慣れないなりに、精一杯お相手したいと思うのだ。
:::
「いやぁ、すごかったなぁ」
ちゅんちゅん、と雀が鳴り出す頃に目が覚めると、隣で眠っていた恋人は朝の挨拶もすっ飛ばしてそんなことをのたまった。寝ぼけ頭で言葉の意味を反芻し、理解したところで、ぼんっと真っ赤になったのは致し方ないだろう。
昨夜、雪崩れ込むようにしてセックスをした。しかも、いつものようなものではない。お互いを貪り尽くすようなセックスだ。お陰で彼の身体にはキスマークがびっしりだし、こちらだってキスマークと噛み痕が刻み付けられている。
それもこれも、全部昨日行った店が原因なのだ。
「まさか、掛けられたあれの威力がこんなにもあるとは」
そう、全ての始まりは、不慮の事故だった。夕御飯を食べるために、いつものような洒落た店ではなく、ハブを選んだのがそもそもの間違いだったのかもしれない。異界人も入り乱れる店では、どんちゃん騒ぎと呼べば聞こえが良いくらいの盛り上がりで。それに少し気圧されながら、ご飯にありついた。そこまでは良い。
「しっかし、こんなセックスドラッグ、摘発されるんじゃないか?」
全くだ。
酒で少しふわついた足元の中、帰ろうとした時、ばしゃっとなにかが降ってきて。謝罪もそこそこに、その男はこうのたまったのだ。
──いやぁ、ごめんねぇ。まぁちょっとした媚薬成分があるだけで身体に影響はないからさぁ、ハッハッハ!
目の前が真っ暗になったのは言うまでもないだろう。酔いも一気に覚めるような発言に困惑したのはこちらばかりで、その男はへらへら笑いながら卓に戻っていったからもう救いようがない。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ、です」
「あー声がらがらだ、まぁあれだけ声出せば仕方ないね」
言葉もない。
結局その後、さっさと家に帰って、そのままなし崩しに発情してしまったという訳だ。彼も乗り気だったのが唯一の救いだが、恥ずかしいものは恥ずかしくて、顔を見れずにいる。それなのに。
「ねぇ、。僕の可愛い人、どうしてこっちを向いてくれないの?」
なんて、甘い囁きが落ちてきて、さらりとした肌に包み込まれてしまうから。呆気なく理性は負けて、振り返る他に術はない。
ちゅ、と額に口付けがひとつ落ちてきて、ふわりとした微笑みにほだされてしまうのは、どうしようもないことだろう。
「おはよう、良い朝だね」
「…おはよーござい、ます」
がらがらの声に、彼はくすくすと笑って、今度は瞼に口付けをひとつ。甘い、甘ったるい。でもそれが心地よいのは何故だろうか。ひとえに恋に落ちているからに違いない。
「昨日は気持ちよかったよ」
「それは、何よりで」
「積極的な君も、可愛かった」
「、どうも」
「好きだよ」
「…わたしも」
だいすきです。その言葉は、彼の唇によって消え失せる。
恥ずかしくて、情けなくて仕方がないが、でも彼が好きだと言ってくれるなら。たまには、こういうのも悪くない──喉は痛いが。
欲求
16/2/19