「どろどろに溶けてしまいたいと思ったことはないかい」
男はそう言って笑った。かくいうこちらは上手く笑えず、ただ、え、と返しただけだった。
彼はベットに腰掛けると、スプリングの優秀なそれは悲鳴をあげることもなく、ぼすんと少しだけ沈んだ。それら全てが絵になるのは、妙に色気のある雰囲気からか、やたらと良い身なり故か。こればかりは羨まれても仕方がないだろう、自分の恋人である彼は、贔屓目なしに見ても美しい男だった。
ずず、と音を立てることなく、コーヒーを啜る様は嫌になるくらい絵になっていて。そういうところにまた恋い焦がれる、既に約束された間柄であるにしてもこういった日々のときめきは減るどころか増すばかりなのだ。
「思ったこと、なさそうだね」
コトン、とカップをサイドテーブルに置いた彼は、こちらを見て薄く笑った。
またしても、え、と返すことしか出来ない愚かな自分を少しばかり呪った。それでも彼は気を悪くした様子もなく、腕を伸ばしてきた。ひやり、冷たい指先が頬を撫でている。訳もわからず目を細めたのは、心地よさからか。そんな様子を見ては満足そうに唇を歪める彼の姿に、ほぅ、と息が漏れる。先程も言ったと思うが、彼は美しい男なのだ。魅了されない女はあまり居ないだろう、その瞳に見つめられると、くらくらと目眩がしそうなほどである。そんな彼が、割合一般的な暮らしをしている自分の恋人たなんて。
慣れない。そう、慣れない。
あまりにも分不相応な気がして、ナンパをされている彼に声を掛けることも出来やしないし、最近の様子から妙な勘繰りをしてくる職場の人間にだって高らかに宣言出来やしない。
だってそうだろう、慣れる方が可笑しいのだ。
紐育からヘルサレムズ・ロットと街が名を変えてから、約三週間でこの生活には慣れた。我ながら見事な順応力だと自負している。でもスティーブン・A・スターフェイズと所謂そういう間柄になってから、いや彼と出会ってから、早もう半年か、未だに慣れる気配はない。それが良いのか悪いのか、そういう判断すら付かない。ふわふわ、と海で浮かんでいるような感覚だった。
恋とは、実に恐ろしいもので。きっと彼に胸を打たれ続けているのは、恋という魔法が見せたものもあるのだろう。でもそれ以上にこの男があんまりにも素敵で、かっこよくて、美しいから。どうしようもなく胸を高鳴らせながら、でもそれを全面に出すのは恥ずかしくてみっともないからひた隠しにしていた。彼のことだから、察しはついているかもしれないが。
キスは会う度、セックスだって歳の割にはしている方だろう。それでも慣れない、慣れる気配すらない。それにキスはまだしも、セックスしている彼の壮絶な色気と素晴らしい手管に、めろめろにならない女はいないに違いない。経験はそう多くないと言えど人並みに済ませてきたが、この上ない快楽を彼は与えてくれている。なんともだらしない体たらくだ。その上、彼を同等に気持ちよくさせていられているかは、未だに不明だったというのも情けない要因に過ぎない。
「俺はさ、」
ぽつりと落ちてきた声は、いつも通りだ。だが何か、妙な違和感を覚える。どこが、と聞かれると困ってしまうのだが、彼の様子がほんの少し、違うような気がした。
「ぐずぐずになるまで、溶かしてやりたいなぁと思ってるんだ」
つぅ、と親指が頬をなぞる。少しばかりくすぐったい、身を捩ると彼はふと頬を弛ませる。それでも違和感は拭えない、やはりいつも通りではないようだ。
「溶かす、って、具体的には、どうするんですか」
ようやく口をついて出た言葉は、彼の求めたものだったのか。にぃ、と微笑みを深くする彼は一層楽しそうに目を細めた。
「そうだな、まず君には仕事を辞めてもらう」
落ちた言葉の衝撃は、少しばかり強すぎた。
何故、どういう理由で。仕事を辞めるというのはつまりどういうことなのだろう、色っぽい話ではない、そういった雰囲気ではない。そもそも結婚したところで仕事を辞めることはない、妊娠で休職というのなら話は別かもしれないが、ハイスクールを卒業してから世話になっている仕事を辞める理由にはならないだろう。
こちらの戸惑いに、ふふ、とひとつ笑いを溢した彼は、返答を待たずに続けた。
「それから、君は限られた時間、限られた場所にしか出掛けさせない」
はてさて、次の言葉も理解は遠く及ぶ。限られた時間、限られた場所とは、つまり外出を彼の望むまま制限させるということだ。それじゃあまるで、ペットと変わらない。いつだって優しい彼の言葉とは到底思えない。
困惑していると、するりと頬を撫でられて、そっと髪を耳に掛けられる。その手付きの優しいこと。まるでガラス細工か何かのような扱いだった。
「どろどろに甘やかして、自分一人では何も出来なくさせて、」
一房とった髪を、くるくると指先で絡めて遊んでいる。微笑んでいるはずなのに、蘇芳の瞳はすぅと射抜いてきて。
「君を──縛り付けてやりたい」
ぞく、と背筋が震えた。
彼は紛れもなく、本気なのだろう。本気で、仕事を辞めさせて、外出を制限し、何もかもを取り上げて、人形のように生きさせたいのだろう。彼が居ないと駄目な、堕落した女にさせたいのだろう。どうかしている、正気の沙汰じゃない。でも一番どうかしているのは、正気じゃあないのは、彼ではなく──
「──ま、無理な話なんだけどね」
からり、笑った彼は、これまでとは一辺して明るい声をあげた。張りつめていたものが、一気に溢れだして、いつの間にか硬直していた身体が息を吹き返す。
取られていた髪が、はらりと落ちる。それからいとおしむように撫でられて、ちゅ、と額にキスまで落ちてくる。これ以上、話すつもりはないのだろう。
「もう寝ようか」
言いながら、サイドテーブルの明かりを落とす。その背中に、ぴったりと抱き付いたことに理由なんてない。ただ衝動のまま、思いのままに、動いたのだ。
「、?」
「わたし、っ」
これ以上言葉は出なかった。それが、明確な答えだと言わんばかりで、余計に切なくて、苦しくて。ぎゅ、と彼のシャツを握り締めた。肩越しに振り返った彼は、ふ、と笑った。穏やかな笑みだ、鮮やかな笑みだ。開いた唇は、この上なく優しい答えを紡ぎだす。
「…良いんだよ、無理なのはわかってるから」
なんて、綺麗な瞳だろうか。
「俺はそうしたいけど、世間が、君がそれを許さない。でも良いんだ、それが敵わないのは、俺の意見が通らないのは当たり前だし、通らないことに安心してるんだ」
「、でも」
「俺が好きになったのは──そんなだよ」
だから、いいんだ。
そう呟いた彼は、くるりと振り返って、どうしようもないことに当惑しているこちらを優しく抱き締める。ふわり、香る彼の匂いに瞼を下ろす。
なんて人だろう、望みが敵わないのが心地好い、そんな風に言ってくれた人が今まで居ただろうか。ありのままの自分が良いと言ってくれた、そうじゃないと気持ち悪いとさえ。
この人に応えたい、なんでもいい、何かを返してあげたい。差し出せるものは全て、惜しみ無く分け与えてやりたい。だって、こんなにも愛してくれる人は、他にいない。
「わたし、」
これくらいしか、今差し出せないけれど。
「ずっと、そばにいますから」
だから──その先は彼の唇に消えた。でもそれでよかったのかもしれない。言葉は陳腐だ、伝える方法はそれ以外にたくさんあるから。だから今は、大きな身体を抱き返して、落ちてくる口付けを受け止める他にないだろう。
狂っている、と言われるだろうか。でもそんな意見はどうだってよかった。だって、こんなにも愛されている、愛しているのだ。いつか、許せる日が来たら、その時は、貴方と共に落ちていこう。怖くない、といえば嘘になるけれど。それでも貴方と一緒なら、それさえ愛しくなる日が、きっといつか来るに違いない。
メリー、ぼくと心中
16/2/26
お題【サディスティックアップル】