こんな現実、くそくらえだ。
「スティーブン、さん?」
冷えた空気、パキパキと氷が出来上がった音と共に名を呼ぶのは聞き慣れた声で。足元から顔まで、は凍っていた。いや、凍らせたというのが正しい、頭の先まで凍らせなかったのは、この後の尋問のためだった。そこに、感情など何もない。
恋人である彼女に呼び出しを食らった、と思ったら場所は使われていない廃ビルで、挨拶もそこそこに拳銃を突きつけられて、凍らした。言葉にしてしまえば単純明快なこの事態に、彼女は当惑したような面持ちでそこに立っていた。
左頬にかすった傷がある、避けた筈だったが一発食らっていたらしい。もしかしたら痕が残るかもしれない、そうなったらまたスカーフェイスという異名が相応しくなるなぁ、なんてぼんやり考えていたら、顔の半分だけ彼女は、顔を一変させる。そこに"彼女"の面影は微塵もない。
「何故、気付いた?」
耳に慣れた筈の声ではなかった。口調も違うければ表情も違う。どうやら、偽物だったらしい。彼女はそんな声で、そんな顔でこちらを見ることは一切ない。よくよく見てみると、氷付けになった皮膚の一部が爛れていた。どういう仕掛けかはわからないが、恋人であるに変装をして油断を誘う作戦だったらしい。
「完璧に化けた、お前に見破られる筈はなかったのに」
計画は完璧だった、とでも言いたいのだろう。その通り、計画は完璧だっただろうさ。ひとつ誤算があるとしたら、それは──。
「別に気付いちゃいないよ」
「なに?」
「君の擬態、か?術の類いかどうかは知らないけど、完璧だったよ。間違いなく・だと思ったからね」
ならば、何故か。
「本物だろうが偽物だろうが──殺すのに大した差じゃあないよ」
そう、答えはいつだってシンプルで。もしも本物だとしても、同じ事をした自信がある。というか偽物だと思っていなかったから、実際そうしたとも言えるだろう。そういう世界で生きている、そういう生き方を選んでいる。だから躊躇うことはない、惜しむらくはもう一度名前を呼んで笑って貰えないことくらいだが、どうやら今回は幸運なことに宛が外れたらしい。
「ばか、な」
馬鹿、なのだろうか。彼女のことは心の底から愛している。軽い気持ちで彼女とそういう間柄になったつもりはない、"こういう仕事"の自分が手を伸ばしたのにはそれなりに覚悟があった。いつだって好きだと思うし、優しくしてやりたい、大事にしてやりたいという気持ちはこれ以上ないくらいにある。
だが、それでも。
「悪いね、まだ死ねないんだ」
そう、死ねない。まだ生きてするべきことがある。それが例え愛しい恋人と引き換えの人生だろうが、まだ為すべきことがあるのだから。自分の代わりはそう多くない、彼女の代わりも勿論いないけれど、世界と天秤に掛けるには軽すぎる。
「…少し、喋りすぎたかな。後は頼むよ」
「仰せのままに」
控えていた私設部隊にそう告げ、吐息をひとつ漏らしてから帰路へと向かう。先程殺した"彼女"が待つ家へと向かうために。
:::
「ただいま」
声を掛けても反応はない。部屋も暗いことから、どうも先に寝たのかもしれない。呼び出された場所は思ったよりも遠かったらしい、時計を見たら深夜と呼ぶに相応しい時間帯だった。
ジャケットを脱ぎながら、寝室へ向かう。なるべく音を立てないようにしたのは、起こすのが忍びなかったから。案の定はベッドの上ですよすよと健やかな寝息を立てながら丸まって寝ていた。どうも自分がいない時は丸まって寝るのが好きらしい、彼女いわく『スティーブンさんのぬくもりに包まれているみたいだから』だそうで。そのいじらしさに聞いた時は堪らなくなって口付けを目一杯送ったのは記憶が新しい。
ギシッとちいさくベッドが鳴る、自分がその端に腰掛けたからだ。眠る彼女の髪を撫でようと手を伸ばして、やめた。
薄情な男、氷の副官。その他似たような言葉ならいくらでも聞いたことがある。それは間違いのない事実なのだろう、必要とあれば友人だって躊躇いもなく殺せるし、仲間だって疑える。お陰様で五体満足生きているが、いつ恨みを買って殺されたっておかしくないことはしていた。我らがリーダーが望まない仕事だっていくらでもしてきた。
彼女に会ってからも、それは続いていて。花のような笑顔に心がほどけていくのを確かに感じながら、人を殺してきた、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいに。愛してるよと囁いたその唇で、別の女の心を弄んでいる、彼女の知らないところで。仕事のためのハニートラップとはいえ、傍目に見たら浮気に入るだろう。抱くことはなくなったけれど、そんなものは言い訳にはならない。そもそも浮気というのは人によってカテゴライズが違うものだ。
本当のスティーブンを知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。友と呼べる人物をあっさり殺して、あまつさえ恋人でさえ躊躇いもなく殺せる男を知ったら、どんな顔をするだろう。泣くだろうか、軽蔑するだろうか、怒るだろうか。そうして、手元からいなくなってしまうのだろうか。もしそうなったら、自分はあっさりとその手を離してしまうのだろうか。それとも、彼女の意思を無視して捕らえて離さないのだろうか。
答えはいくら考えたところでわからない、行き着く先は実際そうなってみないとわからない。そうなったところで、自分はいつものように冷静さを保っていられるだろうか、それもまたわからない。
「スティーブン、さん…?」
同じ声、同じ言葉。脳裏に氷付けになった彼女の姿が過る。冷えた空気、パキパキという氷特有の音。信じられないものを見るような、当惑した瞳。フラッシュバックする、先程の出来事が、彼女を殺した事実が、その時の声が、音が、景色が、何もかもが──
「──スティーブンさん」
「…?」
顔を見ると、眠たげな瞳が真っ直ぐとこちらを見つめていて。震える掌を、そっと優しく握られる。あたたかい、その感触が一体どれだけ俺を救ってくれるのか君は知らないだろう。
「…どうかしましたか?」
生きている、あたたかい掌がそれを教えてくれている。目頭が熱くなる、嘘だろ、まさかこんなことで?
するり、ともう片方の手が伸びてきて、左頬の傷を優しく撫でる。ほんの少しの痛みは、生きている証なような気がして、たまらなくなる。
「」
「はい」
「、」
「はい」
愛してるんだ、愛してるから、愛してるのに。
「──ごめん」
謝った理由は、いくつもあった。躊躇いも持てずにごめん。あっさりと殺してしまってごめん。何より愛しい君を手に掛けるようなことになってしまって、ごめん。
「いいえ」
は何も聞かずに、そう一言返して頬を撫でてくれた。その優しい手つきと来たら、堪えていた涙が溢れさせるには充分で。久し振りの涙だった、心からの涙だった。
きっと、この先また同じようなことが起きるのだろう。彼女の存在を隠したことはない、公にデートだってしてるくらいだ、だから多分こういう手口は後を絶たないのだろう。その度にきっと、躊躇いも油断もなく、あっさりと殺すのだろう。後悔もなく、いつものように。
許してくれとは言わない、君に知られるようなへまは踏まない。もしかしたら、いつか本当に君を殺してしまうかもしれない。その時は為すべきことを全て終えてから、君の後を追おう。それくらいしか出来ないから、遅いと怒られるのは慣れているよ。あぁもしも神さまなんてものがいるのなら、頼むから俺に彼女を殺させるような、そんな酷いエンディングは迎えさせないでくれ。
エンドオブジエンド
16/7/4