失敗した。そう思った時には、もう遅かった。
「あれ、口紅変えた?」
問われたことは至極真っ当で、普段だったらはにかみながら答えられたことだろう。だが、今は顔を歪める他にない。望んでこの唇の色になった訳ではないのだ。
「…何か変なこと聞いたかい?」
まだ何も言っていないというのに、こちらの反応にすかさず対応してみせる恋人は流石というかなんというか。察しが良すぎる彼は、きっと色々な面で重宝されて、色々な面で苦労したことだろう。
なんてことを考えていたら、答えを促されてしまったので答える他に道はない。あんまり言いたくないんだよなぁ。
「実は、これ、呪術が掛かってるんです」
と、言っても大したものではないんですが。
付け足した言葉に、張り詰めた空気を一変させて、ひどく安堵したように息を漏らす彼を見て、心底嬉しくなった。心配してくれたのであろう。普段何を考えているかわからないとよく言われがちらしいが、案外わかりやすい人だということは自分だけが知っていればいい。
そう、呪術を掛けられた。簡易的なもので、被害としては大したことはない。効能は3日程度、パーティーグッズなようなものだった。
職場の飲み会で、酔っぱらった同僚に呪術の組み込まれた口紅を塗りたくられてしまったのが、そもそもの始まりだった。彼女がひどい酩酊状態になった理由はよくわからない、浮かれていたのか、それとも憂さ晴らしか、とにかくよく酒を飲んでいた。
判断力の低下に加えて無意味な全能感に支配された彼女は、手近に居た女性の唇にそれを塗った。男性にはやらなかった辺り、ほんの少しの理性は残っていたのかもしれないが、今になっては確認のしようがない。そして、漏れなく餌食になってしまった訳で。
「で、効能は?」
「…」
事の顛末を説明し終えると、すぐに問われた。そりゃあそうだろう、自分だってもし逆の立場だったらそうする。だが、あっさりと答えるのは躊躇われるものだから、こんな顔をしているのだ。
察しが良いはずなのに、こういうところではそれを発揮させない彼は案外意地悪で、そして好奇心旺盛なのかもしれない。
「?」
「…」
「言わないと、キスするよ」
それは困る。
ばっと慌てて両手で唇を覆い隠すと、その様子を見るや否や、彼はぱちぱちと何度かまばたきを繰り返していた。驚いているのだろう、いつもだったらそのままキスをして、なし崩しのまま全てを暴かれるところだから無理もない。それに、彼からのお誘いをこんな風に拒絶するのは初めてだった。
「…?」
不審そうな視線が飛んでくる。口元は笑っていたけれど、いつもより声は低いし、何より雰囲気が恐ろしい。これは、職場でも大概恐れられているんだろうなぁ、なんてぼんやり考えながら見つめていたら、ぐっと顔が近づいてきたから油断も出来ない。とはいえ、相変わらず唇は掌で覆っているから、不意打ちに口付けられることもないのだけれど。
「はやく白状しなさい」
焦れた彼はそんなことを言う割に、優しく輪郭を撫でて来た。こういうところ、甘いなぁと思うけれど、それと同時に無性に嬉しくなるから困ったものだ。
「──キス魔になる、呪い」
ぽつり、と本当に聞こえるか聞こえないか微妙なラインの呟きも目敏い彼が聞き漏らすはずもなくて。ぱちり、まばたきをひとつした蘇芳の瞳はすっかり真ん丸になっていて、今日一間抜けな声を漏らす。
「…え?」
そう、掛けられた呪術はパーティーグッズのようなものでいて、セックスドラッグにも似たものだった。何の目的で作られたのか知らないが、口紅を塗られたものは一度誰かにキスしてしまうと、誰彼構わずちゅっちゅと口付けをしてしまうのだ。
馬鹿馬鹿しいと思うだろう、いや実際、心底馬鹿馬鹿しいものだから始末におけない。塗られた誰かが、おふさげか何かでキスをした瞬間から、そりゃもうすごい勢いで目が合った人物全てにキスをしまくっていて、さーっと血の気が引いたのをよく覚えている。効能は2日間とはいえ、危険過ぎる。キスさえしなければ発動しないらしいので、この2日間は一切唇を許すつもりはなかった。
「あー…そういえば"会社"の若いのが、なんか言ってたなぁ」
「今、ティーンにバカ受けらしいですよ」
非常に下らないけど。
「そっかぁ…」
気が抜けたのか、ぽすんとソファに背中を預ける彼の落胆は、まぁわかる。恋人がそんな下らない呪術に掛かってしまったのだから、世界の均衡を守るために日夜勤しんでいる彼としては真っ当な反応だ。
そろそろと掌を下すと、するりと伸びてきた指先に掴まった。今、手を握る意味はあるのか、と聞いたところで特別ないのだろう。敢えて言うならば、キスを封じられた故のスキンシップなのかもしれない。
「それで、いつまでだったっけ?」
「2日間」
「2日間かぁ」
短いようで長いその日数は、愕然とするのに相応しいものだった。たかが2日、されど2日だ。何せ簡易的なものだから範囲も広くて、曰く自分以外の誰かの身体の一部に唇が触れてしまったらアウトなのだ。なんでそんなガバガバな設定なんだ、と心底から思う。よく知らないけれど呪術師って実は案外暇なんじゃないだろうか、だから暇つぶしにそんなものを作るんだろう。
「君、時々本当に呪われてる気がするよ」
「失敬な、呪われてるのは職場の位置だけです」
そりゃあ、多少運が悪い日もあるけれど。だからと言って、生命の危機に瀕したことは今までそんなにないし、このヘルサレムズ・ロットで暮らしているのを差し引いてもそれなりに恵まれていると思う。この街に住んでいて、こんな色男を恋人に出来たのだから、寧ろ運が良い方なんじゃないだろうか。そう言うと、苦笑を滲ませながら「僕は案外、悪い男だよ」なんて言うから黙っているが。
不意にひんやりとした感触が頬を襲った。いつの間にか繋いでいた指先が逃げて、頬を撫でていたからだ。存外冷たい指先は慣れてしまえば気持ちいいものだと知ったのは、いつからだったろうか。頬の感触を楽しむようにして撫でられるのは、むず痒いというか、少し恥ずかしかったが、それでも恋人からのスキンシップを逃れられるほど冷徹でもなくて。結局のところ、彼から触れてもらえることに心から喜んでいるのは確かで、だからつい、調子に乗って擦り寄ってしまった。
ぴたっと動きを止めた彼をどうしたのだろうか、と見つめていると、すぅっとまるで吸い寄せられるかのように顔が近付いて来て、鼻がぶつかりそうだな、なんて思ったら抜け目のない彼は少し顔を傾けながら寄せて来て──ふに、とした感触が掌を襲う。
「…」
「…」
一瞬の沈黙の後、彼の眉間に皺が寄った。珍しいな、なんて思いながらも、内心では冷や汗がだらだら流れていた。
「なに、してるんですか」
「なにって、キスだけど」
けろりと、それがどうしたと言わんばかりに返す彼は、おまけとばかりに掌を舐め上げて来るから始末におけない。危ない危ない、うっかり流されてキスするところだった…!すんでのところで冷静になって、繋いでいた指先から逃れて慌てて口を覆った自分の判断に心から感謝したい。
「これ、移るんですよ」
「らしいね」
「移ったら、スティーブンさんだって困るでしょう?」
この呪術はただでさえ性質の悪いのに、キスで発動した挙句、感染するというのだから救えないのだ。
発動するのは良い、丁度明日からは休みだし、今日を含めて2日間、家から出なければ良いだけの話だ。いるのはスティーブンだけだから、キス魔になったところでさして問題はない──恥ずかしいとは思うけれど。
だが、スティーブンは別だ。彼の休みは休みとは言えない。緊急事態になればいくら疲れていようがなんだろうが、世界を守るために飛び出すのだ。そんな彼に、こんな馬鹿げた呪いが移ったらと考えたら──地獄絵図だ。ヘルサレムズ・ロットの街は、あっという間にキスシーンのオンパレードになってしまう。そんなことは、断じて避けなければならない。
「困る?どうして?」
「だってキス魔になっちゃうんですよ、困るでしょう。色々と!」
「誰が困るの?」
誰がって。
二の句が告げられなかったのは、心のどこかでこう思っていたからだ。彼が、スティーブンが、自分以外の誰かとキスをするのが許せない。本当は、彼のため、世界のため、なんて言いながら、自分のためだったのだ。だって、そんなの嫌だ。
「ほら、言ってごらん」
甘いくせに、どこか意地悪な囁きが落ちて来る。こちらの思惑なんて、きっとお見通しなのだろう。わかった上でこんな心の狭いことを敢えて言わせようとするのだから、この人は本当に性質が悪い。
ほらほら、なんて言いながら彼の唇を覆っていた掌を掴まれて、強引に剥がされる。結局、どんなにこちらが抵抗したって、彼に掛かってしまえばすぐに解けてしまうのだ。
「、」
あぁもう、ちくしょう。
「──私が、困る。スティーブンさんとキスするのは、私だけがいい」
こんな身勝手で、独占欲丸出しのみっともない言葉に、目を細めてそれはそれは嬉しそうに笑うから。もう抵抗なんて無駄だった、そんな顔されたらこちらだって堪らない。ちゅっと、小さな可愛らしい音と共に口付けられる。逃げることも止めることも、今の自分には到底出来っこなかった。
触れるだけのそれは案外あっさりと離れて、こつんと額が重なった。にまにまと楽しそうな、嬉しそうな、プレゼントをもらったの子供のような顔をしている彼を少し睨み付けると、くすくすなんて笑いが落ちて来る。
「…どうするんですか、これ」
「どうしようねぇ──と、言いたいところだけど、大丈夫だよ」
大丈夫、とはどういうことだろう。キスをしてしまった時点でこの呪術は完成し、挙句感染するのだ。見てきた自分が言うのだから間違いない。無責任な発言だ、と思いながらじろりと睨んでみると、衝撃的な言葉が飛んで来る。
「俺には、移らないから」
「……は?」
え、いや、そんな馬鹿な。
正直、耳を疑ったし、何を言ってるのか全く理解出来なかった。言葉がなくとも表情にはありありと出ていたのだろう、くっくっくとおかしそうに彼は喉を鳴らしていた。
「この呪術はね、女性限定なんだ。君が見たのも、女性同士のキスだったんじゃない?」
言われてみれば、確かにその通りで。口紅を塗られた同僚は女性だったし、戯れにキスされたのも女性だった。それを、知らずに、なんてことを…!
カーッと頬が熱くなるのを感じる。今すぐベッドに行って、シーツを被って籠城してやりたい。思うが早いがバッと立ち上がったけれど、すぐさまソファに逆戻りになる。彼にぐいと腕を引っ張られたからだ。ぐぐぐ、と力を込めてみても、ただでさえ鍛えている彼に敵うはずもなく、引き寄せられるままに彼の胸元に飛び込んだ。
「…恥ずかしい」
「うん」
「恥ずかしい!」
「うん、可愛いよ」
とびっきり甘い声が降って来たと思ったら、愛しい笑顔が受け止めてくれるから、吸い寄せられるように唇を落とす。呪術のせいか、自分の意思か──答えは神様だけが知っている。
唇の行方は私だけが知ってればいい
17/11/22