失敗した。そう思うにはもう遅すぎた。
ふらふらの足をなんとか動かして、歩いている。いや、ふらふらなのは足なんかじゃないのかもしれない。先程から視界がぐにゃぐにゃしてるから、きっとこれは頭から来ているのだろう。だから足も自然とふらふらせざるを得ない状態なのだ。疲れている訳ではない、単純に酩酊しているだけだ。
なんでこんなことになったんだっけ。全ては2時間前に遡る。
職場の飲み会に顔を出したのは、久し振りだった。付き合いが悪いとはわかってはいるけれど、何せ彼からの連絡がバッティングすることが多かったので、ついつい断りがちだったのだ。普段から顔を付き合わせている職場の人々と、一緒に暮らすようになったとはいえ、四六時中顔を付き合わせられない恋人の誘いを比べたら後者に傾くのは当然じゃあないだろうか。いや、勿論予定がなければ付き合う。職場の先輩や同僚、上司は気の良い人ばかりだし、一緒に飲むのが嫌なわけではないのだ。寧ろ好ましく思っている、だから今日だって参加したのだ。
久々に顔を出したこともあってか、まるで歓迎会のようなノリで飲み会は始まった。どの人々も陽気にビールやウィスキーを煽り、そして勧めてくる。勧められるごとに飲んでいるから、グラスが完全に空になることはほとんどなかった。
勿論、水を挟もうとした。こんな具合で飲んでいたら、明日は絶対に二日酔いになる。そんなのはごめんだ、なのに。
「まぁまぁ、飲めよ!」
「これ美味しいから飲みなさいよぉ」
矢継ぎ早に注がれるから、やっぱり無理だった。グラスを置こうにも、両端を固められて、さぁ次はこれだ、なんて楽しげに言われてしまったら逃げられるはずもなく。ノーと言えない訳ではなかったが、楽しそうな雰囲気に水を差せるはずもなかった。そうして、見事なまでに酔っ払いが出来上がったのだ。
帰り道に、吐かなかったことを誰か褒めて欲しい。酔っ払いというと陽気だったり、泣き上戸だったり、そういったことを想像するかもしれないが、実際ここまで酔うと話は違ってくる。ただ気持ち悪い、横になって寝てしまいたい、そんな気持ちでいっぱいだった。そりゃあ、少し酔うくらいだったら楽しいけれど、ここまで来ると楽しさなんてどこかへ吹っ飛んでしまうのだから、アルコールというものは奥が深い。
気持ち悪い、ただただ気持ち悪い。それでもふらふらな身体をなんとか叱咤して家に辿り着いた。かなり遅い時間だというのに、リビングにはまだ煌々と明かりが点いており、忙しいはずの恋人はすっかり寛いだ様子で本を眺めていた。
「おかえり」
「ただ、いま」
言葉を発したら余計に気持ち悪くなった。壁に身体を預けてようやく立っていられるこちらを見て、全てを察したらしい彼はすくっと立ち上がると、キッチンへと向かった。それを横目で見ながら、這うようにしてソファーへと向かう。びっくりするくらいふかふかなそれは、いつもなら心地よいのに、今日は妙な浮遊感で死にそうだった。
それでも、もう座っていられる状態ではないから、ぼすんと横になって顔を埋める。柔らかなクッションが心地よくて、そのまま瞼を下した。あぁ、このまま眠りたい。
「ほら、水」
すっかり夢の世界に飛び立とうとした自分を押し止めるのは、他でもないスティーブンだった。優しい声だ、多分心配してくれているのだろう。普段だったらさっと起き上がって、ありがとうなんて言いながら飲む。いや、寧ろこんな体たらくを見せないように努力しているのだけれど、今日ばかりはそうも行かない。一度寝転がってしまったらもう起き上がりたくなくて、それでも手を上げてひらひらと振る。
「いらない、です」
「飲まないと後が辛いだろ?」
正論だ。本来ならば今から水やらスポーツ飲料やらをがぶ飲みして、酒を薄めるというか、アルコールを出す必要がある。理屈ではわかっている、でも身体は動かない。それに。
「気持ち悪いから飲みたくない…」
そう、今の状態で何かしら口にしたら吐きそうだったのだ。重症だ、もう二度とこんな飲み方をするものか、と心に決めた。
はぁ、と溜息が聞こえる。そりゃそうだろう、いくら事前に飲み会に行くと伝えてたとはいえ、こんな状態で帰ってくるわ、挙げ句、介抱しようにも動こうとしないわ、情けないにも程がある。呆れただろうか、いや呆れるくらいだったらまだ救いがある。嫌われただろうか、そう思うとじんわり目頭が熱くなってくるから困ったもので。酔っ払うと、涙腺も弛むんだっけ。あんまり酔っ払ったことがないからよくわからないけれど。
「へ?」
不意に肩を掴まれたと思ったら、大きなソファーの上でぐるんと身体が反転する。多分彼の手によってのことだ。驚いている間もなく、傍らに膝をついた彼の大きな掌が背中に回ったと思ったらそっと起こされる。振動が緩やかだったお陰でそこまで気分が悪化することはなかったけれど、何をしたいのかよくわからなくて目を丸くしたまま見つめる他に術がない。そうしてようやく起き上がったこちらを見たと思ったら、口の開けてあるペットボトル─多分、ミネラルウォーターだ─をぐいと煽り、喉を鳴らさずにすぅと顔を寄せてきて。
あ、濡れている。そう思ったのは唇を重ね合わせた後で、半端に開けていたせいか、すぐに水が流れ込んでくる。一度口に含まれていたものだからか、少し生ぬるい。勢いのまま、こくんと飲み込むと、それを確認した彼は唇を離して、口端に流れた水を親指で拭ってからそっと頬を撫でて、
「気分は平気?」
なんて、どこまでも優しく聞いてきたのだった。
少し気障ったらしいはずの行動も、彼がすれば全然気にならないのだから、伊達男というのは得である。そんな伊達男にこの上なく丁寧に介抱されて、まるでお姫様にでもなった気分だ。
?」
答えないこちらを心配したのか、顔を覗き込んでくる彼の瞳は不安そうに揺れていた。出会ったばっかりの頃は、愛想が良いのに何を考えているかよくわからないな、なんて思ったこともあったけれど、案外この人は顔に出やすい人なのだ。
「あ、えと、大丈夫、です」
不思議と、先程までの気持ち悪さはどこかへ吹っ飛んでいた、というのは流石に言い過ぎだけれども、それでも帰宅途中の頃に比べれば幾ばくかマシになった。多分、座っているのと、驚きで中和されたのだろう。我ながら単純だと思うが、驚きは時に体調すら凌駕することがあるのだ、多分。
「よかった」
じゃあ、なんて微笑みながらまたペットボトルに口を付けた彼は、水を含んだまま、また顔を寄せる。いやいや、もう自分で飲めますよ、と言いかけた唇は呆気なく塞がれて、やっぱり生ぬるいものが口内に広がっていく。いつも飲んでいるはずのミネラルウオーターなのに、今日ばっかりは随分と甘い。いや、本当に甘いのは彼なのだろうけれど。それにしてもよく酔っ払いの唇にキスなんて出来るな、と思ったが、自分だって彼が酒に酔っていたくらいで怯んだりはしないからお互い様なのだろう。
こくん、と喉が鳴るのを見届けてから、触れ合っていた唇が離れる。ほんの少し濡れた唇が妙に色気を孕んでいるように見えるのは、多分、というか絶対に気のせいなんだけれど、たかが水を飲ませるだけなのになんでこんなに色っぽいんだろう。
「そんな顔されると、少し困るなぁ」
「え?」
そんな顔とは、一体どんな顔だろう。鏡は近くにないし、確認しようもなくて、ただ首を傾げることしか出来ない。すると、耳元に唇を寄せた彼は、吐息混じりにびっくりするくらい甘く囁いた。
「──そんな物欲しそうな顔されたら、応えたくなるだろう?」
耳なじみの良い低い声がくすぐったい。思わず身を竦めて、それから言葉の意味を理解すると同時にカァっと頬が熱くなる。元々アルコールの所為で熱かったけれど、今はもっと熱い。多分、いや絶対に顔が真っ赤になっているはずだ。
ちゅっと音がしたと思ったら柔らかな感触が耳を襲う。思わず肩を跳ねさせると、身体を離した彼が満足そうに、楽しそうに微笑んでいた。持っていたペットボトルを床に置いて、空いた指先が頬をするりと撫でる。いつも以上に冷たい、いやこっちが熱いのか。
「顔、赤いね」
「酒の、せいです」
「えぇ、本当に?」
嘘だ。でもあっさりと認めるのは癪というか、なけなしのプライドが許さない。こちらだってそれなりに年齢を重ねていて、それなりに恋愛をしている訳だから、こんなことくらいで狼狽えるなんて恥ずかしくて認められないだろう。そんなこちらを知ってか知らずか、にこにこと楽しそうに笑みを浮かべながら頬の熱を楽しむように指を滑らせている。
「水、いるかい?」
あまい、あまい囁き。今度は耳元じゃあないけれど、威力はさっきよりもすごい。
勿論、ペットボトルを渡してくれるなんてことじゃなくて、先程と同じように口移しで飲ませるつもりなのだろう。この人は性質の悪いことに、その質問にこちらが恥ずかしがって断っても、乗り気になって受けても構わないと思っている。つまり、どちらに転んだところで彼の行動は決まっているということで。
いつだって彼の掌の上で転がっているような気分だ。年甲斐もなくはしゃいだり、落ち込んだり、恥じらったり、怒ったり。彼と出会ってから、どんどん感情が豊かになっていく気がする、それこそまるで子供みたいに。それも悪くない、と思っている自分もいるのも確かで。こんなにも楽しそうに、嬉しそうにしている彼を目の前にしたら、世間体とかなけなしのプライドとかそんなもの全部どうだって良くなるのだ。
唇を開く。紡いだ言葉に、目を細めて笑みを深めた彼は、傍らのペットボトルを手に取って、ぐいと煽る。たぷん、と中のミネラルウオーターが揺れた。


飲み過ぎにご注意

17/12/27