まずいことになった。
ぽたぽたと水滴が落ちる。でもそんなことお構いなしの事実に今は打ちのめされていた。まさか、そんな。そう思ったところで現実はゆるぎないものだったし、すぐに覆るほど、ことはそう単純ではない。
そうだ、と思い立って、先程よりも強めに、しっかりと髪をタオルで拭く。水滴が落ちるということは、まだ完全にタオルドライが出来ていないということで、つまりはいつもより重さが加わっているということで。微々たるものだとわかっていながらも、懸命になってしまうのはどうしてだろう。完全に水気を切ったことを確認し、意を決して再び一歩を踏み出す。
ピピっと、無機質な音が現実を突きつける──体重が、以前よりも大幅に増していた。
愕然とした。思わずその場にしゃがむくらいにはショックだった。嘘だ、と真っ先に出てきたけれど、よくよく考えてみたらこれはある意味当然の結果なのだ。
以前に比べて、格段に増えた外食、家で食べる料理も栄養面がカバーされているとはいえ、やはり以前に比べたらボリュームがある。一人で暮らしていた時は、面倒だったり疲れていたりと適当に済ませていた食事は、今や三食きっちりお腹いっぱいになるまで食べている。だというのに、大して運動はしていない。ジムに行くなんてもってのほかだし、ジョギングをするようなタイプではない。そもそも運動はそんなに好きではないのだ。必要に迫られればするが、そうでないならなるべく家でのんびりと過ごしていたい。つまり、そういう怠慢が現状を招いた、とそういう訳なのだ。
なんということでしょう。なんて、通販番組で聞いたことのあるような台詞が脳裏をよぎる。これは、由々しき事態だ。ただでさえ、東洋の血が入っているこの身体は、屈強な欧米人と違って平坦だ。多少肉が増えようが、生粋の欧米人なら胸とお尻が出っ張っていて良いかもしれない。だが、自分は違う。大体の肉は腹から付くし、腹じゃなかったら足や腕に付く。まぁつまりは、元々平坦だった体型が崩れるということだ、それも勿論悪い方に。
問題だ、これは問題だ。そういえば最近少しスカートがきつくなった気がする。もしかしたらずっと前から警笛は鳴らされていたのかもしれないというのに、美味しい料理に舌鼓を打つことばかりに夢中になっていたから、今になって気付くという哀れなことになってしまったのだ。
現状を、打破せねば。と、まぁかっこよく宣言したところで、要するにダイエットを決意しただけだった。取り敢えず、食事を控え目に。元々こちらの普通に比べたら少ない方だったと思うが、それでも更に控えることにする。それと運動だ、徒歩で通勤することにしよう。なんだかんだ最近は恋人といちゃいちゃして車で送られることが増えていたので、良い機会である。ジムに通うのもいいかもしれない、取り敢えず明日、職場へ行ったら先輩辺りに聞いてみよう。
「…頑張るぞ」
小さく呟いた言葉は自分を鼓舞するためのものだ。斯くして、すっかり肉が落ちにくくなった成人女性のダイエット生活がスタートしたのであった。
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その筈、だったのに。
「食べないの?」
どうしてよりにもよって、今日なのだろうか。先程、決意を新たにしたばかりだというのに、シャワー室から出てきたら、ローテーブルにはフルーツタルトがあった。曰く、ヴェデッドが自分のために作ってくれたらしい。ここ、恋人であるスティーブンの家に転がり込んでから今日で丁度一年、日頃、お世話になっているからとわざわざ作ってくれたのだ、勿論タルト生地だって手作りだろう。マメだ、マメ過ぎる。当の本人なんか綺麗さっぱり忘れていたし、言われてから初めて気付く有様だったというのに。そもそもお世話になっているのはこちらの方だし、何ならお礼をするべきなのは自分なのに。彼女の優しさが目に染みる、嬉しさで飛び上がりそうなくらいだった。
しかし、だ。浮かれた頭に浮かび上がったのは、先程自分を奈落へと突き落とした数字だった。時計の針は、既に21時を示している。確か20時以降は何も食べちゃ駄目だ、と通年通してダイエットに勤しんでいる先輩から聞き及んでいた気がする。つまり、今食べるのは、限りなく危険だということで。
食べたい。本音を言えば、まぎれもなく食べたい。ヴェデッドの気持ちが何より嬉しいし、明日の朝には味の感想と共にお礼を告げたい。しかし、理性がやめとけと言っている。ダイエット中に、しかも夜にこんな高カロリーなものは食べてはいけないと思う。
うぐぐ、と美味しそうなタルトを目の前に指一本動かさずにじっと見つめているこちらを、彼が怪しまないはずもなく。不思議そうな顔で覗き込まれる、思わず顔を逸らしたらすぐさま指先が伸びて来て顎を掴み、強引に、けれど優しく顔の位置は元に戻った。
「どうしたの」
疑問形ではなく、言い聞かせるような言葉は、こちらを心配しているのだろう。そりゃそうだ、いつもだったら両手を挙げて喜ぶのに、フォークも持たないでただじっと見つめているだけなのだから、誰だって何かがあったのだと思う。しかし、だからと言って素直に告白出来るだろうか。よりにもよって、愛しい愛しい恋人にだ。
「いや、あの、その…」
言いよどむのは当然だろう、何なら視線だって彷徨わせる。どうにか誤魔化して切り抜けたいが、この人相手に本音を隠しながら上手い言い訳が出来る筈もない。おまけにここまで怪しまれていたら、もうすっかり手遅れだ。道はふたつにひとつ。素直に白状するか、どんな目に合おうとも白を切り通すか。どちらにしたって精神的には削られそうだ、まさに前門の虎、後門の狼。なんて、余計なことを考えていたら、彼が動き出す。
ふわっと嗅ぎ慣れた香りが近付いたと思ったら、唇は塞がれていた。驚いて視線を戻すと、唇を離したはずの彼が何度も何度も口付けてくる。啄むようなキスの嵐に戸惑ったが、顔を逸らそうにも顎を固定されてしまっているから敵わない。突然どうしたのだろう、今そういう雰囲気だったろうか。そんなことを考えていたせいなのか、キスの嵐から逃れようと身を引いていたせいなのか、いつの間にやら身体が沈んでいく。この家のベッドの寝心地が最高なことは言うまでもないだろうが、ソファも中々寝心地が良い。柔らかなクッションはあっけなく身体を飲み込んでしまったから、目を丸くしたまま彼を見上げる。そんなこちらにお構いなしで彼は唇を落とし続けていたが、どうも雲行きがどんどん怪しくなっている。唇だけではなく、首筋に口付け始めたからだ。え、いや、本当にいつそういう雰囲気になりました?そう問い掛けようと唇を開いた次の瞬間、するりと部屋着の裾から彼の指先が侵入してきた。
まずい。何がまずいって部屋着の裾から一番に到達するのはお腹周りだから、少し触ればわかってしまうのだ──残酷な数字のその意味を。ばっと不埒な手首を掴むと、ぴたりと彼は動きを止めた。
「どうしたの?」
微笑みを持ってそう問いかけてくる彼は、もしかしたら気が付いていたのかもしれない。
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「なるほど、ね」
恥を捨てて洗いざらい白状したところで、彼は笑いながら頬を撫でてきた。慰めているのか、それとも顔の肉を確認しているのか定かではなかったが、彼に触れられること自体は嬉しくて堪らないので甘んじて受け入れることにする。
「まぁ、確かに前に比べたら触り心地が良くなったね」
大分気を遣った言い回しだったが、彼の目にも体重の変化は明らかだったようだ。悲しい、思わず項垂れると慌てたように彼が慰めの言葉を掛けてくれたが、それにしたって悲しい。どこの世界に、恋人に太ったという事実をあっさり突きつけられる女がいるのだろうか。正直なところは彼の美徳だと思うが、それにしたって、いや、太ったのは事実だし、仕方ないのかもしれない。
「ごめんなさい…」
「なんで謝るんだい?」
思わず謝罪を口にすると、きょとんとした彼が不思議そうに首を傾げた。いや、なんでって。
「だ、だって太ったんですよ…?」
そう、太った。目に見える形で太った。運よくサイズアップとまではいかなかったが、太ったのは事実で、その分だけ彼に相応しくなくなったのだ。別に痩せていたからといって自分が彼に相応しいとは到底思えなかったが、凡人にも凡人なりの矜持と目標があって。彼の隣に立つ時は、出来るだけ恥ずかしくない姿でいたい。服装も、体型も、髪型も、化粧も。何もかもが完璧とは言えない、ハリウッドの女優にだって人気のアイドルにだってなれやしないけれど、それでも凡人なりに努力していたのだ。なのに、幸せに現を抜かしていたら、この体たらく。落ち込むなという方が無理で、謝るのは道理なのだ。
それなのに。
「太ったっていいんじゃないか?」
「は?」
今、この人は何を言ったのだろう。
「別に俺、君の体型で君のことを好きになったわけじゃないしなぁ」
そりゃ、こんな体型じゃあ魅力的じゃないかもしれないけど。
「違う違う、そうじゃなくて」
唇を尖らせたこちらを見て、苦笑を滲ませた彼はひらひらと手を振って、それからすっかりひねくれた考えになっているこちらをあやすように両頬を包み込んでくれる彼の表情は、柔らかい。
「──つまり、どんなも、なら好きだよってこと」
太ったって、髪ぼさぼさだって、すっぴんだって。
「まぁ、努力する君はとっても可愛いけどね」
はにかんで、少し照れくさそうに告げる彼の言葉が、胸をぎゅうっと締め付ける。たまらなくなって抱き付くと、勢いに負けたらしい彼がははっと小さく笑った。背中を優しく撫でられて、愛しそうに抱き締め返してくれる姿に益々たまらなくなってぎゅっと腕に力を込める。
「スティーブンさんは、天才ですね」
「うん?」
「私を喜ばす、天才」
「…それは、光栄だ」
微笑み合って、どちらともなく触れるだけの口付けをする。好きだ、あぁ好きだ。この人が大好きだ。
──とはいえ。
「まぁ、ダイエットはしますけどね」
「えぇ、君、俺の話聞いてた?」
「これは私のプライドの問題なんです!」
せっかく、触り心地がいいのに。
拗ねたような言葉は、今は無視する。女性にとって、痩身というのは永遠のテーマなのだ。
「まぁ、でも」
するりと片手をローテーブルに伸ばした彼が、美味しそうなタルトが鎮座する皿を持ってくる。顔の近くに寄せられたそれに首を傾げると、彼は悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「取り敢えず、それは明日からにして──今はお祝いしない?」
愛しい愛しい恋人の悪魔のような囁きが、甘美に響いた。
なんでもいいのに
18/1/25