まずいな、と素直に思う。
鏡の中の自分の顔はそりゃあひどいもので、瞳は赤く、そして瞼はほんのり腫れていた。多分、明日にはもっと腫れているんだろうなぁ、なんて思いながら、さてどうしたものかと考える。
今一番会いたくて、今一番会いたくない人に、今夜は呼び出されている。勿論断ることは出来る、ほぼ入り浸ってはいるといえ、一応まだ自分の住んでるアパートメントの解約はしていなかったから彼の家に帰らなくても寝る場所には困らないし、体調が悪くなったとか、会食で遅くなるとか、色々と言い訳を考えることは可能だった。でも、先延ばしにしたところで、どんなに逃げ回ったところで現実は変わらない。いつかは告げられるのだ、残酷な真実を。
だから、覚悟を決めてスティーブンの家に帰る他に道はないのだけれど、それにしたってこの顔はひどい。誰が見ても、十人が十人泣いていたとわかってしまうだろう。一旦、久々の我が家に帰ってシャワーでも浴びてみたが、少し赤みが抑えられたくらいで泣いていた事実を掻き消すことは出来なかった。はぁ、と溜息が出る。嗚咽はあまり出してなかったとはいえ、長時間泣き過ぎた。いや、泣いてた時間は一瞬のように感じていたけど、気が付けば30分泣きっ通しだったのだ。そりゃあ、目も赤くなるし瞼だって腫れるってものだ。なんとか化粧で誤魔化すしかないか、と思い、化粧道具に手を伸ばす。きっと、彼のために化粧をするのはこれが最後なんだろう。彼と別れたところで化粧をしない訳ではないけれど、それでも多分、もう二度と彼のために化粧をすることはない。ずきっと胸が痛んだけれど、もう何を悲しめばいいのかわからなくて、知らない振りをして鏡の中の自分を見ながら小さく笑った。
「…ひどい、顔」
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見慣れた道を歩く。所謂恋人関係になってから、彼の家へと向かうこの道を歩いたことはもう数えきれないくらいで。車だったり、徒歩だったり、彼と歩いたり、一人で歩いたり、色んな思い出が詰まっている。歩いていると、どんどんこれまでのことを思い出して、またじんわりと目頭が熱くなってきた。いけない、いけない。せっかく化粧をして見れる顔になったというのに、ここで泣いたらまた自分の家に逆戻りだ。最後くらい、精一杯きれいでいたいじゃないか。
涙を振り払うように首を一、二度振ったところで、携帯電話が震える。一瞬、スティーブンかと思って冷や冷やしたが、相手はK・Kだった。安堵しながら画面を操作して、耳に当てると元気な声が聞こえてきた。
『こんな時間にごめんないね。今、平気?』
「うん、大丈夫だよ」
『よかった!』
K・Kの用事は他愛のないもので、多分今じゃなくても良い内容だった。子供のこと、旦那さんのこと、聞いているこっちが楽しくなるようなものばかりで、緊張が少しだけほどけるような思いだった。それと同時に、きっとスティーブンもホテルで見た女性とこんな家庭を築くんだろうな、と考えて、またぎゅうっと胸が痛くなる。厄介なものだ、と心底思う。もっと純粋で、きれいな心の持ち主だったらよかったのに。こんなどす黒い感情を、彼に知られたくないし、知らせるつもりは毛頭ないけれど、それでもやっぱり、彼の隣にはいるのは自分がよかった。けれど、それでも。
「ねぇ、K・K」
『ん?なぁに?』
「私、今からいっぱい頑張らなくちゃいけないの」
『あらぁ、そうなの?』
「うん、だからね」
背中を、押してくれないかな。
受話器越しのK・Kは、一瞬沈黙をして、でもすぐにびっくりするくらい優しい声でこう言った。
『何を頑張らなくちゃいけないのか、アタシにはさっぱりわからないけど──が決めたことを曲げる姿は見たことないわ。失敗しても、受け止めてあげる。貴方なら、大丈夫よ。だから、思いっきりやんなさい』
ぽろっと涙が零れる。慌てて指で拭って、上を向いて堪えた。気を抜くとわんわん泣いてしまいそうで、全部吐き出して、無責任にも逃げ出したくなってしまったけれど、ぎゅっと掌を握って堪える。
何も知らないはずなのに、欲しい言葉は全部もらえた。頼もしい仲間を持ったものだと思う、こんな人が傍にいてくれたら、きっといつかは立ち直れるだろう。今は辛くても、いつか心から祝福出来る日がきっと来る。
「ありがとう、K・K」
『どういたしまして。お役に立てた?』
「もう、すっごく!」
お互い小さく笑って、それからまた他愛もない会話を少しだけして電話を切った。丁度、彼の家の入口に着いたところだったから、携帯電話をしまいながらすぅと息を吸い込んだ。
「がんばれ、わたし」
自分を鼓舞するように小さく呟いて、いざ、決戦の地へ。
「やぁ、お帰り」
扉を開けると、寛いだ格好をした彼がそこにいて、いつもと同じように穏やかに微笑みながら出迎えの言葉を掛けてくれた。これを聞くのもこれで最後なんだな、と頭の隅で考えながら、にこりと笑った。この家でしか、二人の時しか見れない顔、でももうそれは、自分だけのものじゃない。
「随分遅かったね、そんなに長引いた?」
「いえ、一回家に帰ったので」
「家に?」
緩く首を傾げた彼は、不思議そうにそう繰り返した。そういう仕草が可愛くて、愛しくて、堪らなかった。
「汗、掻いたので、シャワーを浴びに」
「なんだ、それならウチで入ればよかったのに。もしかしてわざわざ化粧し直したのかい?」
頷くと、もう寝るだけなのに勿体ないね、と笑った。
「でも今日はまた外に出ないといけないし」
だって、自分の家に帰らなくちゃいけないから。そんなことくらい、彼だってわかるだろうに、不思議そうな顔をしながらまた首を傾げていた。流石に別れた直後に泊まれるほど、心は強くない。いくらこの家が広くて、ゲストルームがあるとはいえ、そこまで神経が図太いわけではないのだ。
「、どうか──」
「スティーブンさん、」
我ながらしっかりした声が出た。何かを言いかけた彼の唇を止めるくらいの力はあったようで。
「お見合い、したんですよね」
彼に言われたらきっとショックが大きすぎて上手く笑えなくなるから、自分から切り出した。言い出してから、どんどん口の中が乾いていく気がする。きっと緊張しているのだ、恐れているのだ。
「──うん、したよ」
本当は、ほんの少しだけ期待していた。まさか、お見合いなんてしてないよ、って言ってくれるんじゃないかって。でもやっぱり現実は残酷で、覚悟していたとはいえ、胸がぎゅうっと締め付けられる思いだった。
「わたし、」
声が震える。泣くな、泣くな、泣くな。絶対に泣かないと決めたんだから、この部屋を出るまでは。
「見ました、スティーブンさんがお見合い相手の方と話しているところ」
すごく、幸せそうな顔をしていた。あんな顔を見れるのは、ずっと自分だけだと思い込んでいた。それは浅はかな勘違いだったけれど。
「とっても、とってもお似合いでした」
悔しいとか、そういう感情が湧いてこないくらいで。それがまた、余計に辛かった。
「今まで、ありがとうございました──幸せに、なってください」
貴方の幸せを、何より望んでいるから。
にっこりと笑顔で言うつもりだったのに、視界はぼやけるし、唇は震えるからきっと不細工な笑顔だっただろう。でもいい、ちゃんと言えた。
本当は、私が幸せにしたかった。何の変哲もないけれど、スティーブンが選んでくれたから、傍に置いてくれたから、だから自分の出来る精一杯で愛して、愛して、愛して──幸せを感じてもらいたかった。
そう心から思うけれど、でももうお役ごめんなのだ。結婚だけが全てじゃない、幸せの定義なんて人それぞれだけど、いつもどこか諦めたような顔をしていた彼が家庭を築きたいと思える相手が見つかったのは、きっと幸せになるための第一歩なのだ。だったら、彼を、スティーブンのことを誰よりも愛している自分が祝わないで、願わないで、誰が背中を押してやれるのだろう。
「それじゃあ、帰ります──さようなら、スティーブンさん」
大好きでした。
すっと背を向けて、歩き出す。本当は目を見て言えればよかったんだろうけど、そこまで心は強くなかった。ぽろぽろと涙が零れてくる、拭っても拭っても溢れて来て、止まらなくて。はやく出よう、荷物もついでに持って行きたかったけれど、今は駄目だ。今度、彼のいない時間を狙ってこっそり来なくては、その時に一緒に鍵を置いていけばいい。あぁもう、足が震える。もっとはやく歩いて、とっとと部屋を後にしたいのに、どうしてこういう時だけ言うことを聞いてくれないんだろう。
ふわり、不意に大好きな香りがするなと思ったら、腕を掴まれていた。どうして、と思うよりも、はやくぐいっと引っ張られて思わず振り返ると、見たこともないくらい必死な顔をした彼がそこにいて、気が付くと彼の胸の中にすっぽりと身体が納まっていて。驚いて見上げると、目の前に彼の顔がいっぱい広がって──唇が、触れ合った。
キス、されている。状況がようやく飲み込めた時、既にもう遅かった。離れようと抵抗しても、腰と後頭部に回った彼の掌ががっつりとホールドしていて離れられない。荒々しい口付けだった、身体を重ねる時だってこんなに乱暴だったことはなかった気がする。なんで、どうして、こんなことするの。そう思うのに、やめて欲しいのに、心の底では嬉しくて堪らなくて、結局抵抗なんて形だけのものにしかならなかった。
それからどれくらい経っただろう、きっとそんなに長くはないはずなのに、まるで永遠のように感じてしまっていた。ようやく唇が離れた頃には息も絶え絶えで、逃れようと思えば隙はあったかもしれないのに、結局彼の腕の中にいた。
「…じゃない」
震えた声が、降ってくる。
「冗談じゃない!」
怒気を孕んだ声がびりびりと耳に響いた。
「今までありがとう?さよなら?まさかとは思うけど、別れるつもりなのか?ふざけるのも大概にしてくれ!」
こんな風に、怒った彼を見たのは、多分初めてだと思う。
「幸せになってなんて言うな」
ぎゅうっと痛いくらい抱き締められる。先程までの見たこともない怒りは、いつの間にか見たことのないような悲しみへと変化していた。
「──君じゃなきゃ、意味ないだろ」
おれを、しあわせにするのは。
もう、止まらなかった。涙が堰切ったように溢れ出して、彼のシャツを濡らしていく。嗚咽が出て、不細工に泣きじゃくるこちらの顎をそっと優しく掬って、愛しむように涙を親指で拭ってくれる彼の顔は辛そうで、苦しそうで、あぁやっぱり好きだと思い知らされた。そっと爪先に重心を掛けて踵を上げる。背伸びしたこちらに、いつも通り彼は身を屈めて、そしてまた唇が触れ合った。今度は乱暴なものじゃない、慈しむような優しいそれが嬉しくて堪らなくて、またつぅと涙が伝って、彼の親指落ちた。
「すきです」
「うん」
「すきなんです」
「うん」
「わたしだけのものでいて」
最後だから良い女でいようなんて、もうやめだ。純粋で、きれいな心なんて持てるはずない。恋をしているのだ、愛しているのだ。どす黒くて、醜い感情だってある。きれいな感情だけで愛せたらよかったのに、とどれだけ思ったことだろう。それなのにこんな醜くて、子供で、我儘な言葉を、彼は噛み締めるように頷くから、堪らなくなって抱き締めてまた唇を重ねた。
どれくらい経っただろうか、何度か唇を重ねて、涙を拭ってもらって、痛いくらい抱き締め合って、ようやく落ち着いた頃には、もうすっかり鼻も目も真っ赤になっていた。
「ごめん」
ずずっと鼻を啜った時に、不意にそんな声が落ちてくる。見上げると、これ以上ないくらい申し訳なさそうな顔をした彼がいた。
「お見合いは、した」
バツが悪そうに、ぽつりぽつりと話し出す。
「けど、最初から断るつもりだった。会わずに断れればよかったんだろうけど、斡旋先が中々しつこくて」
斡旋って、いやまぁ確かにその通りなんだけど、もうちょっと言い方がなんとかならなかったんだろうか。仮にもお見合いだぞ。
「会って、すぐに伝えたよ。そうしたら彼女の方も恋人がいるのに無理矢理連れて来られたみたいで、すぐにご破算になったんだ」
そうなのか。それにしても、随分と親密そうというか、あんな顔まで見せるなんて。
「それで、まぁ、なんだ」
言いにくそうに、視線を彷徨わせながら、いつもは明朗快活な言葉を詰まらせていた。それでも、すっとこちらに視線を向けたかと思うと、いつになく真剣な眼差しで、こんなことを囁いた。
「お互いに、恋人の話をしたんだ。好きなところとか、可愛いところとか──これから先もずっと一緒にいたいと思っている、とか」
目を、見開いた。彼はそんなこちらに照れたように少し笑ってから、するりと頬を撫でてくれた。
言葉を何度も反芻して、ようやく理解に至ったけれど、これはもしかして、いやもしかしなくてもそういうことでいいんだろうか。直接的に言われたわけじゃあないから、勘違いだったらものすごく恥ずかしいけど、でも、やっぱりそうとしか考えられないのは短絡的な思考だからなのだろうか。
「えっと、あの」
鼻声がひどい。そりゃああれだけ泣いたらそうなるだろう。鼻をかませて欲しい気持ちは少しだけあったけど、いやでもそんなことより重要なことがある。
「私、ずっと一緒にいていいんですか?」
隣に、立っていていいんですか?
それはずっとずっと望んでいたことで、背中を守れるほど強くはないし─実際、戦闘においてはまるで役立たずだ─前を歩けるほど賢くもなければ勇気もなかった。だから、せめて隣に並びたいと思っていた。それでも隣に立つにはまだまだ全然相応しくないから、いっぱい努力して、いつか隣に立てたらいいなとずっと思っていたのだ。それが、まさか、彼の方からそんな言葉が出てくるなんて。
「なに、君はそういうつもりじゃなかったの?」
唇を少し尖らせて、まるで拗ねたみたいな物言いにぶんぶんと首を振って、それからじわじわと浮かんでくる嬉しさに口許が弛んでいく。それを見て、ふっと笑った彼は額に唇を寄せた。
「今日言うつもりじゃなかったんだけど、」
でも、まぁ、こういうのも俺達らしいかな。
「──結婚、しようか」
指輪もないんじゃ、かっこつかないな。なんて、苦笑しながら、それでもわかってるくせに、返事は?なんて聞いて来る意地の悪さが、どうしようもなく好きだ。
「そんなの──決まってるじゃないですか」
飛びつくみたいにぎゅっと抱きしめて、それから少し驚いたような顔をした彼に唇を押し当てる。
「結婚しましょう、スティーブンさん!」
幸せへの第一歩は、二人で踏み出そう。
さぁ、幸せになってみようか
18/2/8