最近、彼女は忙しいらしい。
らしい、というのは中々ちゃんと会えていないからだ。ヴェデッドに様子を聞いての判断だが、どうやらかなり忙しいようで。かく言う自分も、ここのところは事務所に缶詰だったので人のことをとやかく言えた義理はないのだけれど。
一緒に暮らしてから、もう幾分か月日が経った。それなりに毎日騒がしく過ごしていて、暇だなんて言える日はあまりなかったとはいえ、それでもこんなに会わない、というか顔を合わせて話さない日はなかったかもしれない。一応、夜は家に帰れるから顔だけは見ているけれど、大抵彼女は寝ているし、こちらもこちらで朝からバタバタと出掛けているからまともに顔を突き合わせて話したりはしていないのだ。一緒に暮らすようになってからはどちらかが忙しくともどちらかは少しでもゆとりがあったから、おはようやおやすみくらいはきちん出来ていたし、朝食くらいは一緒に食べれていた。こちらはともかくとして彼女の仕事は一般のものだから─まぁヘルサレムズ・ロットで一般も何もないだろうけどね─忙しくとも2、3日程度だったし、少なくとも朝ぎりぎりまで寝て夜遅く帰ってすぐに寝るなんてことはなかったと思う。
そういえば、先週末は金曜から飲み会だ遊園地だなんだと遊びに行くと言っていたっけ。久々に会う友人だから楽しみです、なんてにこにこと上機嫌に笑っていた。自分以外の人間が彼女をそこまで浮かれさせるなんて、と思わなくもなかったけれど、流石に大人気ないので飲み込んでおいた。我ながら心が狭い、というかこんなことを思う人間だったのかと逆に驚いたのはここだけの話にしておこう。
なるほど、考えるにその疲れが休まらないままに仕事が忙しくなっている、ということだろう。彼女は平凡な人間で、まぁ当然のように鍛えているわけではないから、体力も年相応なのだろう。ベッドの上でも想像以上にはやくへたってしまうし、それはそれで可愛らしいから良いと思うのだけれど。
今日はこっちの仕事が落ち着いているし、何事もなければ普通に帰れるだろう。もしも彼女よりはやく帰れたら、そうだな、何かしら彼女のためにしてあげたいと思う。取り敢えず、目の前のことに集中するか。そう考えて、ざりっと道を踏みしめながら呟く。
「エスメラルダ式血凍道──」
はぁ、漏れ出た吐息は相も変わらず白かった。
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とっぷりと夜も暮れたというのに街並みは明るい。毎日が大騒ぎのこの街では、昼も夜も関係なく盛り上がっているからいつ歩いたところで明るいは明るいのだけれど、時間だけは正確だった。流石に日付は変わらないとはいえ、もうヴェデッドはとっくの昔に帰っているし、きっと恋人であるもいくらなんでももう帰っているであろう時間だった。
あそこでザップが斬った異界生物が斬った分だけ分裂しなければなぁ。そう思ったところでもう遅いし、時間は決して巻き戻ったりなんてしないのだから悔いたところで仕方がない。せっかく彼女を労おうと思ったのに、まぁ明日は全休にしたから、明日こそは労うか。
そんなことを考えながら、セキュリティを抜けて部屋へと向かう。案の定、部屋はしんとしていたが不思議なことに電気だけは煌々と点いていた。ヴェデッドは点けっぱなしで帰るような性格ではなかったし、だって点けっぱなしで寝室に入ることはない。じゃあ、まだ起きてるのか。そう思いながらリビングを抜けようとして、思わず立ち止まる。
すぅ、すぅと寝息が聞こえた。恐る恐る、というか、まさかと思いながらそっとソファに向かうと、驚くことにコートを着たまま丸くなって寝ているがそこにいた。
健やかな寝息がすることに安堵しながら、念のため額に手を当ててみたが、特別高熱が出ている様子はなかった。どうやら体調不良で倒れているわけではなく、うっかりうたた寝─というにはあまりにも熟睡だったけれど─してしまっているらしい。コートを着たままというところから考えるに、恐らく、というか確実に帰って来てそのまま眠り込んでいるのだろう。本当に疲れているんだな、なんて思いながらも、このままこんなところで寝かせるわけにはいかない。そりゃあそれなりに調度品には気を遣っているからこのソファも中々クッションはしっかりしているけれど、睡眠を目的として作っているわけじゃないし、こんなところで寝たら身体を余計に疲れさせるだろう。
「」
そういう訳で身体を揺すってみたが、残念ながら起きる気配はまるでない。心地よさそうな顔をして寝息を立てる姿はそりゃあ愛らしかったけれど、困ってしまったのは正直なところで。どうしたものか、と少し考えて、まぁ一日くらい晩飯を抜いてシャワーを浴びなかったところで死ぬことはないし、このままベッドに運ぼう。そう結論づけて、小さな身体を抱きかかえようとして、はたと気付く。流石にコート姿のまま、寝かせるのは忍びない。やっぱり身体は休まらないだろうし、何よりコートに皺が寄る。いや、もしかしたらもう何時間かこのまま寝ているのかもしれないけれど、それでもこのまま朝まで寝かせるよりは今脱がせてハンガーに掛けた方がマシだろう。どうせなら部屋着に着替えさせようか、と思ってクローゼットに向かう。敢えて言わせてもらうが、何の下心もなかった。ただ彼女に健やかに眠ってもらいたかっただけなのだ。
我ながら器用にコートを脱がせて、さぁブラウスを、と思い、プチプチとボタンを外した時、小さく彼女が声を上げた。
「んー…」
思わず手を止めたが、それは所謂寝言で、結局起きる気配は微塵もない。けれど、聞きようによっては艶めかしいそれにドキリと胸が跳ねたのは事実で。
いや、いやいやいや。
何を動揺してるんだ、ただの着替えだろうに。そう、別に何かしようとしているわけではない。単純に寝やすい格好で、と思っただけだ、何の下心もない、ただの親切心だ。なんて、誰に告げるわけでもない言い訳をつらつら考えながら、自分を後押しするように作業を再開する。それこそベッドの上でしかあまり見ることのない肌を見て、ひとつも動揺しなかったか、下心は湧かなかったか──答えは勿論、ノーだった。
それでも、眠っている恋人に無体を働くほど理性が働かない獣というわけではなかったから、なんとか無事に着替えは終了した。ティーンじゃあるまいし、馬鹿か。女の身体を初めて見たわけでもないというのに、どっどっどとうるさい心臓をなんとか鎮めつつも、ちらり、と視線を向けてみると、愛しい恋人はこっちの気持ちなんか何も知らずに純粋無垢に眠っていた。その顔を見ていると、愛しいという気持ちと少しばかり意地悪をされたような気持ちが入り混じる。
「…目が覚めたら、覚えとくように」
聞こえているはずもない上に言いがかりにも程がある内容だったが、まぁこれは甘く見てもらうとしよう。心臓が落ち着いた頃に小さな身体を抱き上げて寝室へと向かう。歩きながら、彼女の顔を見ているとなんだか胸がじんわりとあたたかくなっていく。そっとベッドの上に下ろしてから、前髪を指で軽くはらって剥き出しになった額に口付ける。はやく起きたらいいのに、そうしたらびっくりするくらい優しいキスをその唇に落とすのに。そう思いながら色づいた唇に視線をやって、そういえばと気付く。
流石に余計なお世話だろうかと考えながら、でも困るのはだしなぁと思い至って、ポケットから携帯電話を取り出す。画面を滑らせながら、確実に何か言われるだろうなぁ、と思いながら、耳に電話を当てる。
「もしもしK・K?突然悪いんだけど、化粧ってどうやれば落ちるんだっけ?」
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「すみませんでした…」
翌日、目が覚めると既に起きていたは、消え入りそうな声で開口一番にそんなことを言った。時計を見てみるといつも彼女が起きるより数十分早い時間だった。顔を見るに、どうやら昨日の夜見た時よりはすっきりとした面持ちだったのでこっそり安堵した。申し訳ないやら恥ずかしいやれでいっぱいなのか、ものすごく顔を歪めながら謝罪の言葉を口にする彼女に思わず笑ったら、益々ショックを受けたようにしゅるしゅると小さくなっていた。
「大丈夫、流石に下着までは替えてないから」
そこまでされてたら、もう貴方の顔は見れません。と言わんばかりの視線が飛んで来て、あれ?と苦笑混じりに首を傾げたら何か言いたげに押し黙ってしまった。フォローのつもりで言ったのに。
「顔色も良くて安心したよ。よく寝れた?」
「まぁ、はい、お陰様で…」
シーツを握り締めながら、居たたまれなさそうな顔をしているから思わず頬を撫でると、うっと言葉を詰まらせていた。そんなに気にしなくてもいいのになぁ、そう思いながらそっと腕を伸ばして抱き寄せると、胸の辺りで彼女は小さく唸った。
「情けない…」
うん?と首を傾げて続きを促すと、腕の中にすっぽりと納まった彼女は歯噛みしながら、ぽつりぽつりと呟く。
「だって、確かに忙しかったけど、疲れてたけど」
チラリ、伏せられた睫毛が花開くように上がったと思ったら、真っ直ぐな視線が飛んで来た。
「スティーブンさんに比べたら、全然大したことないのに」
「俺?」
「だって私はただ働いてるだけで、仕事だってそんなに難しいことしてるわけじゃないし」
不貞腐れたような、いじけたような口振りだったが、要するにこんな程度で情けないと言いたいのだろう。
「…馬鹿だなぁ」
漏らした声は、自分でも驚くくらい優しいものだった。
「別に誰かと比べなくていい」
ピッタリ同じことをしている人なんて、どこにもいないのだから。
「君が頑張ってた証だろ?俺はそんなのことを、情けないなんて思わないよ」
寧ろ、
「──誇らしいとすら思うね」
俺の愛してる女性は、こんなにもひたむきなんだって。
仕事は仕事だ。好きでやってる人も中にはいるだろうけど、まぁ包み隠すいえば金を稼ぐための手段、生活するために必要な拘束時間だろう。不真面目にやる奴なんかいくらでもいるし、そこまでじゃあないにしろ、どこかしらで手を抜く奴は絶対にいる──残念ながら、我がライブラにも。
休もうと思えばいくらでも休めたんだ、世の中には有給制度があるし、フレックスタイムだって導入されている。それでも彼女は週明けから一度も休んでいないし、きっと課された業務が無事に遂行するまでは誰が休めと言っても拒否することだろう。そういうところが、いや、そういうところも好きだと心から思う。
ちゅっと音を立てて、頭のてっぺんに唇を落とすと、ただでさえ丸くなっていた目は益々丸くなる。
「それで、仕事はどう?」
「え、あ、まぁ大分落ち着きました」
「じゃあ今日ははやく帰れる?」
「というか、流石に休めと半休取らされましたけど…」
なるほど、中々良い上司だ。
「じゃあ、帰ってきたら二人でゆっくりしよう、俺は今日全休だからヴェデッドと二人で待ってるよ」
「え、あ、はい!」
ぱぁっと顔が綻ぶ姿は愛しくて愛しくて堪らないから、痛がらせない程度にぎゅっと抱き締めて、口付ける。触れるだけのそれに嬉しそうに目を細める彼女はやっぱり可愛かった。もう一度、唇が触れ合ったらその中にある舌に食らいついてやろう、そう思った矢先に、幸か不幸か、ピピピと電子音が鳴り響く。
「…時間だね」
「…はい、時間、ですね」
お互いに先程よりも声が暗くなったことに、段々面白くなって二人して笑いながら、ちゅっと音を立てて唇を重ねる。
さて、と立ち上がってバスルームへと向かう小さな背中は、愛らしいのにどこかかっこよく見えた。
数分後、バスローブに身を包んだ彼女が珍しくもバタバタと走って来たかと思ったら、顔を真っ赤にしながら目を吊り上げて、やっぱり珍しく声を張り上げた。
「スティーブンさん、メイクまで落としてたんですか!?」
あ、やっぱり駄目だった?
proud
18/2/28