人間、諦めが肝心である。
そう言ったのは誰だっけ、なんてぼんやり考えながら襲い来る現実という名の悪夢を振り払おうとする。悲しいかな、そんな無意味なことを嘲笑うかのように圧倒的に現実は訪れる。
チャリ、と鎖が鳴る音がする。捕えられている訳ではない、いや、もしかしたら捕えられているのかもしれない。胸元に金の十字架が揺れる。顔を上げると、腕を戻しながら満足そうに微笑む恋人の姿が目に入った。
「…満足ですか?」
「うーん、そこそこかな」
そこそこ、とは。
思わず睨み付けると両手を挙げる彼は、それでもなんだか楽しそうに笑っていた。人がせっかくこんなものを着ているというのに、なんだその顔は。いや、着てるからそんな顔なのか。
身にまとうのは、ねずみ色のワンピース、と言ってもただのワンピースではない。首元を覆うハイネックのワンピースは清楚なことこの上ないだろう、だって──修道服なのだから。
ことの始まりは、やっぱりザップになるのだろう。奴に渡されたメイド服を着た時から全てが始まっていたのかもしれない。それから何がお気に召したのか、セーラー服を用意した彼が次に選んだものは、なんと修道服だった。どういうルートで手に入れたのか知らないし知りたくもないが、どうやらこれは本物の修道女が着る類のもののようで、コスプレ目的の安っぽいものとは違って生地はしっかりと厚かった。ヴェールまで用意した辺り、本気なことはよく伝わって来た。
それなのに、そこそことはどういうつもりだろうか。こちらだって恥じらいがない訳じゃない、いくら三度目とはいえ、ハロウィンでもなんでもない日に─そもそも仮装するのは子供だけだ─恋人に望まれたからという理由だけで着るには中々勇気のいる格好だったというのに。
「あれ、なんか怒ってる?」
口にしなくともわかっているだろうに、意地悪なこの人は試すようにそんなことを言うのだろう。その割に申し訳なさそうな顔ひとつしないで、にこにこと楽しそうに微笑んでいるから、尚更性質が悪い。結局のところ、どんなに怒っていたところで、彼にご機嫌取りされればすぐに良くなってしまうこちらにも問題があるのだろうけれど。
「満足してないって言ったのは、ね」
くい、と顎を取られる。自然とそのまま彼を見上げていると、すぅと顔が近付いて来て、口付けられる。触れるだけのそれで彼が満足するはずもなく、何度か口付けられたと思ったら唇を舐められた。お約束と言わんばかりのそれにそっと唇を開くと舌先が潜り込んで来て、あとはもうお察しの通りだ。ご機嫌を取るつもりなのか、突然の口付けに抵抗するどころか受け入れてしまっている辺り、もう駄目なのだろう。惚れた弱味か、いや単純にこの人に弱いだけだ。あぁもう、しょうがない人だなぁ。なんて大人ぶっているけれど、結局のところ、彼が望むことをなんでもしてあげたいと思うくらいには溺れているのだから仕方がない。本当にしょうがない人なのは、彼じゃなくてこちらの方なのだ。
貪るような甘い口付けが終わった時には、もう瞳は潤んでいたし、息も絶え絶えだった。口端に零れた唾液を親指で拭いながら、それはそれは満足そうに、嬉しそうに笑みを深める彼は、おまけとばかりに額へちゅっと口付けを落とす。
「うん、これで満足」
「はぁ」
何が違うのか、さっきと変わったことはと言えば口付けをした、それだけなのに。
「こういう顔をね、させたかったんだよ」
せっかく、こういう服を着てるんだからね。
悪戯っぽく片目を瞑ってみせる姿は、それはそれは様になっていて。うっかり言葉の意味を察する前に、きゅんと胸が高鳴ってしまったじゃないか、これだから自分の魅力をわかっている人は嫌なんだ。
さて、こういう顔、とはどういう顔かおわかりだろうか。息は上がって、頬も熱い。おまけに目は少し潤んでいる、そんな顔だ。そして次に、こういう格好、との対比を考えてみよう。清楚さを全面にあしらった服、潔癖で清廉なその姿とそんな顔を並べてみると、答えは簡単だ。
「…親父くさい」
思わず素直な感想を漏らすと、気分を害するどころか楽しそうにあっはっはと笑われてしまった。多分、こういう反応をするのもわかっていたのだろう。
要するにこの人は、清楚で"そういうこと"なんて微塵も知りませんと言わんばかりのこの格好で、みっともなく、はしたなく自分を求めて欲しかったのだろう。ひどい偏見だ、修道女だって恋くらいするかもしれないのに。あぁそうだ、神様と恋をしているんじゃなかったっけ。
同時に、自分の中の浅ましさを暴かれたみたいでものすごく恥ずかしい。いやだって、キスされたら求めちゃうでしょう、その先を。どうせこんな格好させたのだって、それが目的なんだからそうなるのも仕方ないでしょう?
心のままに罵倒したり、反論したりするのは自由だったが、それをしたところで結局上手く丸め込まれて、この人の掌の上で踊る羽目になるのだ。だったらせめて、少しくらいは意趣返ししてやりたい。
「神様に怒られますよ、敬虔な教徒になんてことをって」
「君、神様なんて信じてないじゃないか」
ぐう。痛いところを突かれた。
「普段、信仰してないくせに、都合の良い時にだけ頼るのはどうかと思うなぁ」
挙げ句の果てには追撃までしてきたので始末におけない。ちょっとした反抗だったのに、微塵も許さないと言わんばかりに畳みかけられた気分だった。
鋭い言葉とは裏腹に、腰に回った手つきは嫌になるくらい優しかった。優しさついでにさらっとお尻まで撫でられたから、やっぱりこの人は抜け目ない。
「ぎゃっ」
「おいおい、今更なんて声上げるんだい」
いつももっとすごいことしてるだろう?なんて耳元で囁いてくるから、ぞわぞわとした感覚が背筋に走る。あれ、いつの間にスイッチ入ったんですか。そう聞こうとしたら、また唇が塞がれた。こちらの心の内はお見通しということだろうか、もう余計な言葉はいらないと?それにしたっていくらか性急だ。これまでだったらもう少しイメージプレイがまいなことを楽しむくせに、今日はさっさとベッドに行きたいのだろうか。
先程よりも一層激しい口付けに、すっかり腰砕けになったところで、尻を撫で回していた大きな掌が支えてくれる。それと同時に離された唇からは、荒い呼吸が止め処なく溢れていた。
「こんな、ことして、罰、が当たり、ます、よ?」
「いいよ」
せめてもの反論はあっさりと受け入れられて、濡れた唇がまた重なった。触れるだけのそれはもどかしくて、もっと、とはしたなく求めてしまうのは、彼とのこれまでを思えば当然だろう。とどのつまり、求めているのは彼だけではないのだ。
「神なんかに、君をやるもんか」
はい?
「──君は、俺のものだろう?」
えっと、それはそうなんですけど。どういうことだろう。いつになく真剣な瞳をした彼の言うところをよくよく整理すると、つまりは神様に嫉妬したということで良いのだろうか。そんな、こちらにとって都合の良い理由で、こんなことを?しかも、着せたのはスティーブン自身なのに?
信じられないと言わんばかりに見つめていると、いつまで経っても返答しないこちらに焦れたのか、拗ねたように唇を尖らせながら額を合わせて来る。あぁもう、この人、本当に可愛いな。
「…そうですよ、私は、スティーブンさんのものです」
素直に口にすると、あんまり嬉しそうに笑うから。堪らなくなって、今度はこちらから口付けた。舌を滑り込ませて、自ら深い口付けをするこちらを、彼がなんと思ったかはわからないが、その気になったのは間違いないようで。唇を離すと同時に、抱え上げられる。ぎゅうと抱き付くと、ちょっと待っててと言わんばかりにまた額に唇が落ちて来た。向かう先は勿論寝室で、それこそお姫様みたいに丁寧に下ろされたと思ったら、覆い被さってきた彼から口付けられる。優しい行動とは裏腹に指先はワンピースの下を潜り込んで来て、不穏な動きを始めていた。
「神なんか、忘れさせてあげるよ」
あ、やっぱりイメージプレイはするんですね?
なんて言葉を告げる前に、唇はもうすっかり嬌声しか上げられなくなってしまっていた。
かみさま、ごめんなさい
18/3/14