ピンポーン、と呼び鈴が鳴る。
時刻は7時半を過ぎた辺り、デリバリーを頼んだ訳でもなければ、こんな時間に大家が来ることは滅多にない。じゃあセールスか、まさかとんでもない。こんな時間にまだ働いているなんてブラックも良いところだ、労基に訴えてしかるべきだろう。なんて、考えたところでこんな時間帯に我が家を訪ねてくる人物なんて、一人しか心当たりがないのだけれども。
「腹減った」
「はいはい」
出迎えた途端、挨拶もそぞろに開口一番に言う男に対して溜息混じりに頷いた。
ザップが家に来るようになってもう随分と経つ。あの日、かくまってからというものの連日とまでは行かないが、何故だかよくよくこの家に訪れるようになっていた。
曰く、暇つぶしだとか、中間地点に丁度良いとか、飯を食わせろだとか。理由は様々だったが、大抵こちらが家にいる時間帯、つまりは夜に来るものだから仕方なしに夜ご飯をご馳走する羽目になっていた。一人分作るのも、二人分作るのも大して金額も手間も変わらないから別に良いのだけれど、それにしたって来すぎなんじゃあないか。
扉を大きく開けて出迎えると、勝手知ったると言わんばかりにずかずかと部屋に入り込んできた。相変わらず遠慮のない男である、それくらい気を許されているのかと思うと、まるで野良猫が懐いてくれたような喜びが湧いて来る。結局、彼が訪れる度に迎え入れているのは、なんだかんだ嬉しいからかもしれない。餌付け成功か、なんてほくそ笑んでいるとベッドにどかっと座った彼から視線が飛んでくる。
どうやら先程の言葉は本心のようで、はやく飯にありつきたいようだ。ここはレストランでもなければ気軽に入れるファーストフード店でもないんだが。そんな言葉が喉まで出かかって、寸でのところで止める、視線がどんどん鋭くなっているからだ。お腹が空いて不機嫌になるって、どこの子供だとも思わなくもないけれど、確かにお腹が空いた時のあの切迫感と言ったらないから仕方がないのかもしれない。
はいはい、わかってますよ。言葉にすると、またがっと怒りそうだったので黙ってキッチンに向かう。途中ひっかけたままのエプロンを取って、歩きながら身に付けたところで振り返るともう視線は外されていて、付けたままになっていたテレビに夢中のようだった。まるで我が家のような態度にふっと笑みが零れた。いつの間に懐かれたんだか、本当に野良猫みたいだなぁ、そう思いながら冷蔵庫を開けた。



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作った料理を綺麗に平らげる姿を見るなんて、何年振りだったろうか。実家に居た頃はたまに両親に振る舞っていたけれど、それも一人暮らしをするようになってからぐんと機会が減った。こと、この街がヘルサレムズ・ロットに代わってからは余計に。そりゃあ、何もしてなくともお腹は減るから、節約のために自分で作ってはいるけれど、平らげるのも勿論自分だった。昼食以外は大体一人でご飯を食べている、それが普通だった、当たり前だった。それなのに。
「美味しい?」
「んー」
生返事だったが、食べ進めている姿を見るにまずくはないらしい。
ザップが家に来るようになってからというのものの、一人ご飯がぐんと減った。友達はいるし、職場の人とも仲良くしているからたまに外食することはあったけれど、それだって毎日のことじゃない。月に2、3度あればいい方で、それ以外は一人でテレビを観ながらぼんやり食べる日々だった。
しかし、彼と出会って、この家に連れて来てから、何故だか通ってくるようになって、当たり前みたいにご飯を一緒にするようになった。勿論毎日じゃない、こう見えて忙しいらしい彼はしょっちゅう電話で呼び出されている。電話の相手は女性が多く、びっくりするくらい気障ったらしい言葉で口説いていた時は思わず噴き出した──そのせいで振られた、なんて因縁を付けられたりもしたっけ。
ともかく、理由はさっぱりわからないけれど、どうやらこの家が気に入ったようでよく来るのだ。特別何かする訳ではない。ご飯を作って、適当に喋って、その内に「じゃあ帰るわ」なんて言い出すから見送って、たったそれだけ。本当にただの暇つぶし、どこかへ行く時の中間地点でご飯を食べさせている、ただそれだけの間柄だった。
そんな友人と呼ぶにしてはあんまりな関係なのに、何故無償でご飯を与えているのか。理由は自分でもさっぱりわからない、ただなんとなく、手を差し伸べたくなってしまっただけなのだ。
出会いは勿論最高と呼べるようなものじゃない、何なら吐きそうになったくらいだった。でも不思議と、ザップ・レンフロという男と話すのは嫌いじゃなかったし、彼のために何かすることは好き、と言えるくらいだった。我ながら、ただの都合の良い女だなぁと思うけれど、それでもよかった。その理由はわからないし、多分知らなくていいことだと思う。
「ご馳走さん」
食べ終わって、すぐに立ち上がる彼を見上げる。どうやら今日は本当にご飯を食べに来ただけらしい、満たされた腹をぽんぽんを撫でながら玄関へと向かっていた。
「いってらっしゃい」
そう声を掛けたことに、特別意味なんてなかった。ただなんとなく、あぁ出かけるんだな、と思ったら出ていた言葉だった。
ぴたっと歩みを止めた彼は、ゆっくり振り返る。驚いたように丸くなっているアイスブルーの瞳はまっすぐにこちらを向いていた。そのまま無言で、見つめ合う。何分そうしていたか、正確にはわからないけれど、体感ではかなり長く感じた。不意に、彼が身体を戻したことでその時間は終わりを迎える。けれども、扉に手を掛けた彼が、
「…行ってくる」
なんて、小さく、本当に小さく呟いたから、その声の響きに少し胸がざわついたのは一体何故だったんだろう。


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「あー、疲れた」
そんな独り言を、夜道とはいえうっかり呟くくらいには疲れていた。
いつもより遅い時間、明るい帰り道をちんたら歩く。突然納期が迫ったせいで、余裕を持って進めていた作業をフルスピードで片付ける羽目になったのだ。お蔭で残業だ、いつもよりも3時間は長く仕事をしていた。これで明日も朝から仕事かと思うと憂鬱だ、帰ったらすぐにシャワーを浴びて寝よう。そんな決意をしながら、アパートの階段を上る。
自室のあるフロアまで上り切ったところで、見慣れた風景に見慣れないものが混ざっていた。
蛍光灯に照らされて、きらきら光る銀髪。褐色の肌はあまりよく見えない、扉の前に三角座りした膝に突っ伏しているから首元や手元しか顕わになってないからだ。
「…ザップ?」
まさか、と思いながら声を掛ける。ぴくりを反応した彼は緩慢に顔を上げた、射抜くようなアイスブルーにドキリと胸がざわついたのは気のせいだろうか。
「おっせーよ」
ぶすっと不機嫌そうに顔を歪めてそんなことを言う彼は、だからと言って本気で怒っている訳でもなさそうだった。慌てて駆け寄ると、肩を鳴らしながら、くぁと大きな欠伸をひとつした。
一体いつから待っていたんだろう、というか昨日も来たのに今日もなんて珍しい。連絡してくれれば、と思ったけれどそもそも彼の連絡先なんて知らなかった。待てよ、そもそもなんで待ってたんだ?そんなことを考えていると、不意にバサッと何かを差し出された。
「ん」
言葉は短く、だけど明確で、どうやら受け取れということらしい──差し出されたのは、色とりどりの花束だった。
なんで花?とか、なんで私に?とか、言いたいことはたくさんあったけれど、驚いたまま中々受け取らないこちらに焦れた彼がバサバサと花束を上下に揺さぶるから、せっかくの花が散ってしまうと慌てて受け取った。ふわり、胸元から香るいい匂い。花束なんてもらったの、何年振りだろう。
「あり、がとう?」
「なんで疑問形なんだよ」
いや、だって。
もらう理由がわからないのだからしょうがない。というか、まさかいるとは思わなかった人物から花束をもらって、動揺するなという方が難しい。あ、もしかしてこれはもらい物か何かなんじゃないだろうか、それで根無し草の彼が処分に困って、と考えて、だったらわざわざ待たなくても花束だけ置いて帰ればいい話だと気付く。
じゃあ、何故。答えを知っているのはザップだけで、だったら聞くしかなくて。
「なんで、花?」
直球も直球、ドストレートの問いかけに、彼はふんと鼻を鳴らした。
「俺が花渡しちゃ悪いのかよ」
いや、そういう意味じゃなくて。
「なんで、私に?」
そう、そこなのだ。花をもらったことは純粋に嬉しい、綺麗だし、いい匂いだし、生活感しかない部屋に彩りを添えてくれることに間違いはないだろう。
ザップが花を贈ることに違和感はない。数多の女性の下を渡り歩いている彼は、狙いを付けた女性にプレゼントを贈るためのお金は惜しまない。例えばネックレスだったり、例えばイヤリングだったり。その人、個人個人のために一生懸命悩んで、喜んでくれるかと期待しながら、よく見せびらかしてくるからだ。
問題は、何故、ザップが私に花を贈るのか、ということで。
だって、勿論恋人ではないし、そういう雰囲気になったことは一度もない。口説かれた覚えもなければ、口説いた覚えもない。知り合い以上友人未満みたいな、そんな希薄な関係なはずなのに。一体、何故、花なんか渡してくるのか。
「…後輩がよ」
言いにくそうに、不貞腐れたように、ぽつりと呟く。
「飯とか、色々世話になってんだったらお礼くらいしろってうるせーのなんのって」
どうせ飯代も出してねぇんだろって口うるせぇんだわ。
「…だから、花」
「おう」
いや、もう、なんていうか。
ぎゅうと花束を抱きしめて、顔を埋めた。あんまり不器用で、でも純粋な気持ちの証は、これ以上ないくらいの喜びを不意に与えて来るから困る。
見返りなんて求めてなかった。それこそ野良猫みたいだと思っていたから、遊びに来てくれるだけで嬉しかったのに、まさか、こんなものをくれるなんて。じんわりと嬉しさが広がって、途方もないくらいのそれに少し苦笑してしまう。
「…ありがとう、ザップ」
「、おう」
少し照れたように、頬を掻く姿は、ひどく愛しく思えた。
「ご飯、食べてく?」
小さく頷く彼に、手を差し出した。握られたそれに、ドキリと胸がざわめいたのは、多分気のせいに違いない。


野良猫と、ごはんと、それと

17/11/15